五十肩の憂うつ
完璧な「五十肩」である。
思えば、右肩の時も同じような症状だったから、たぶんあれも五十肩だったのかもしれない。気持ち的には四十肩だと言い張りたいところだが、残念ながらその呼称は1960年代までだったらしい。
昼間は消炎鎮痛剤のテープを貼って凌いでいるが、夜がツライ。横を向いて寝るスタイルの私は、左を向いた場合、どうしても左肩に体重が乗る。で、次に右に寝返りを打った時、左肩に痛みが走って目が覚めてしまうのだ。それでなくてもセットした目覚まし時計よりも早く目が覚めるこの頃なのに、真夜中にも目が覚めてはかなわんわ。
・・・・・・・
その治療にもなる事を期待して、土曜の夕方便で3日間の鹿児島温泉旅行に出かけた。今回はカミさんの他に私の両親を伴っての旅だったが、全員マイレージ特典チケット利用でロハ。ま、これでも親孝行みたいなモンだわな。
台風の影響で天気には恵まれなかったが、まずは第一の目的地だった、翌日でもお肌スベスベの「日当山温泉」へ。今でこそ市町村合併によって有名な霧島温泉郷のある霧島市に属してはいるが、硫黄泉の霧島温泉とは異なり、重曹(炭酸水素)泉のため白っぽい。今までに浸かった温泉の中で最も高いスベスベ度に加え、旅館も本家の霧島温泉よりもリーズナブルなので、私は断然こちらを好む。
さて、2日目は薩摩半島を横断し、第二の目的地である吹上浜方面へ。湯之浦という所で古くから温泉旅館を経営しているNさんに会うためだ。このNさんは、先月放映された「戦場のメロディ~108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌~」でドラマ化された日本人兵士の一人として、戦後、現地で言われ無き罪によって死刑宣告され、フィリピンのモンテンルパ刑務所で刑の執行を待つ身だった人なのである。
それを救おうと立ち上がった人達が復員局役人の植木信吉氏、教誨師の加賀尾秀忍氏、そして収監されていた兵士達が作った「ああモンテンルパの夜は更けて」を歌った渡辺はま子らだった。私の母も女学生の時からこの運動に参加し、その後結成された「門天会」に今でも出席している。
その縁でNさんも過去数回、両親の家を訪れ、その時に私も会っていた。それから実に数十年ぶりの再会だったが、米寿を迎えたNさんは、遠い記憶の面影と大きな変わりはなかった。通された部屋には教誨師・加賀尾秀忍氏直筆の「清輝」の書が掛けられていた。
Nさんから語られる当時の様子は、認知症気味とは思えぬほど力強く、特に最初に3名が処刑された日と14名も一気に処刑された一夜、そして釈放された日に目にしたと言う、処刑された人が埋められた脇に更に10に及ぶ穴が掘られていたというくだりは、事実だけが持つ重みに圧倒され、胸が締め付けられた。釈放がもう少し遅れていたら今度は間違いなく自分の番だったとも。
その後、霧島温泉の宿で義弟一家と合流して宴会、宿泊。6歳と5歳の2人のムスメ達もグッと子供らしくなっていた。日当山の重曹泉、霧島の硫黄泉とたっぷりハシゴしたおかげか、肩の痛みも少し和らいだ気がした。だが残念ながら、昨日からの専門営業部隊に行なったゴリゴリ研修でぶり返してしまった。やはり五十肩は時間が解決するのを待つしかなさそうである。
- 関連記事
-
- 史上最高額の国内旅行 (2010/10/26)
- 男だらけの秋キャンプ (2010/10/17)
- 五十肩の憂うつ (2009/10/28)
- 癒されて190里 (2009/10/05)
- 御宿の夜は短かかった (2009/08/02)