温故知新シリーズ 20(最終回)
これまで何度か言ったり書いたりしてきた事だが、昨今の世の情勢を見るにつけ、もう一度きちんと書いておきたいと強く感じた。あまりにも陰惨な事件が多すぎると思わないだろうか?
人が人を実に簡単に亡き者にする、あるいは自分を簡単に捨ててしまう。立ち向かい戦う事を放棄し、守りはおろか逃げに入っている者も多い。その理由をさまざまな人が述べているが、私はつまるところ自身の精神の在りようではないのかと考えている。若い世代を中心に「精神の弱さ」が露呈してきているという事である。
精神の強さには二通りある。
一つ目はここ一番で「がんばる力」である。
人生には何度もここ一番の時がある。それは受験勉強かもしれないし、発表会や競技大会かもしれない。あるいは日常の仕事の中とか恋愛の場面でも出くわすかもしれない。いずれにせよ、自分にとって最高の結果を生み出したい時が必ずあるという事だ。
そのためには、そうなるようがんばるしかない。求める結果が大きければ大きいほど、それに見合った努力が要求されるだろう。しかし、それは最短距離の努力を指すのではない。たとえ効率が悪かろうが、目指す目標に向かってそれをやり続けるという事が重要なのだ。そしてそれは目標が達成されようとされまいと、自身にとって必ず良い方向の成果をもたらすだろう。別名「あきらめない力」とも言う。
二つ目は「こらえる力」である。
凡庸な人間にとって欲望とは限りないものだ。やりたいもの、手に入れたいものが限りなくあるだろう。だがすべてが今すぐかなう訳はない。だから自分を抑え、我慢する。それをバネにがんばる。けれども、どんなにがんばってもいつも必ず思ったような結果がついてくるとは限らないのが世の常だ。十分な努力をしても、プレッシャーに負けて力を出し切れない時だってある。思わぬ大失敗に挫折を味わう時だってある。理不尽ないじめや暴力に悩まされる時もあるだろう。
そんな時の対処法は「こらえる事」と「受け流す事」である。
ぐっと耐える事も必要だが、適度に受け流して後に引きずらないよう気持ちを切り替える事も大切だ。降りかかる重圧や苦しさをその都度真正面から受け続けてしまえば、いつかは心が耐え切れなくなり折れてしまう。折れた心に「憎悪」という感情が発露されれば他人に、「絶望」という感情が発露されれば自分に牙をむく。行動に出してしまえばニュースを賑わす事になる。だから人はこれらマイナス感情の発露を起こさせないよう「こらえる」のであり、「受け流す」のである。
がんばる事もこらえる事もさほど求められず、その必要性を理解しないまま成長すると、来たるべき時に社会の一員となる自覚も持てずにひたすら自分に甘く、周囲に甘える人間が出来上がってしまう。
彼らは明確な目標を持ったり保証の無い地道な努力をする事は好まないから、誰かがいつかお膳立てをしてくれるのを待ち続けている。それでも言い訳だけは用意しており、曰く「本当にやりたい事を見つけている」とか「就職で安易な妥協はしたくない」などと一応格好をつけてみる。だが時間は待ってはくれない。かくして人生の大切な成長期を惰性と妥協の日々で食い尽くしてしまう。
どうにもならないと気づいた時には、もうとっくにどうにもならない時なのである。
私は思う。親も教育者もリッパな学歴よりもタフな精神力の育成に心を砕くべきだ。
昔とは異なり、現代はモノが溢れ、金さえあれば何でも手に入る世の中である事は否定しない。人間関係も近隣や仲間同士でさえ距離を置いたり、損得や好き嫌いのみが人と接する尺度であったりとますます淡白なものとなっている。この状況下でいかにがんばる事とこらえる事を教え、体験させられるかは、もはや関わる大人のセンスの問題だろう。本人も含め双方がその必要性を真剣に考えず放棄するならば、いずれこの問題はさらに深刻に表在化してくるに違いない。
さて、その精神力を持って目標を達成するのに必要なものが技能、すなわちスキルである。現代の標準とすれば、それは「PCスキル」と「英会話」ではなかろうか。
PCスキルはワープロとデータ処理(表計算)程度が出来ればいい。プログラミングやシステム等の専門知識は、それを職業としない限り必要ないし、メールやインターネットは後からいくらでも追いつく。PCは所詮道具なのだから、ビジネスツールとして普通に使えればいいのだ。高度なワザは、それが必要になった時に学ぶ方がよく覚えられるものだから、その時が来たらすればいい。
英会話は通常の会話が支障なく出来る程度が目標となろう。ビジネス会話やディスカッションは難易度が高く、ちょっとやそっとでは習得できないレベルなので無理はしないでいい。巷では会話以外の総合英語力の指標としてTOEICの点数が話題になるが、高得点を取ってもろくに話せない人も多いという。
であるならば、コミュニケーションツールとして活用できる会話の方がより実用的ではないだろうか。外資系に活力のある日本経済の現状では、外資系企業はある意味いい仕事をするための主要な選択肢ともなっている。それに限らずとも、さまざまな場面で外国の人を相手にする機会は増えている。ならば会話力は必須だろう。
この2つのスキルを身につけていれば大抵の仕事で困らないだろうし、そんな魅力的な即戦力の人材を求める企業は多い。今のところ、このスキルは自己アピールには十分訴求力のあるスキルである事は間違いない。相手から選ばれる側だったものから、こちらが相手を選ぶ側に回る事だって可能である。
企画力、折衝力、プレゼン能力等のより専門的なスキルは、必要であれば仕事をこなしていきながら習得すればいいのだ。そういった業務能力向上の育成は企業側の責任なのだから。PCと英会話は、世の荒海を渡っていくためのスキルとしては必要十分な武器だと思う。
繰り返すが、精神力とスキルは車の両輪である。しかしながらスキルの習得より重要で、かつ時期を誤ってはならないのが精神力の育成だと思う。
人生に「負け」はない。あるとすれば「失敗」である。
だからこそ、人はそこから立ち上がれるのだ。
人生に「勝ち」はない。あるとすれば「到達点」である。
だからこそ、人はそこから更なる高みが見えるのだ。
(2004年12月 記)
・・・・・・・
旧ホームページで綴って来た20編のエッセイモドキの最後がこれだった。
ここに書いた事は、今の自分に対する戒めでもあり、私の子供達に対しても言って来た事でもある。もっとも、一人の男として、また子供達の親としてどれだけ実践し、その背中を見せて来れたかは甚だ疑問ではあるが。
わが国では、年間の自殺者数3万人以上という不名誉な記録を10年以上も続けている。また、自殺に及ばずとも格差社会に取り残され、戦意喪失に至った引きこもりやニートが只ならぬ数で発生している。社会から取り残されたり落ちていく人数が増える事があっても、ちっとも減らないのは明らかに異常事態である。
「為せばなる。為せぬは人の為さぬなりけり」などという叱咤激励の言葉などは、経済不況による大企業の求人数減少と大学数過多による大学生の増加との需給バランス崩壊の前にはいかにも無力であろう。仮にも最高学府を卒業した人材を受け入れる社会の器の大きさも、彼らがチャレンジできる社会の余地の大きさも、時代が進むにつれ確実に減少して来ている。
この事は、私の親父の時代と比べて私自身も感じていたから、そんなに間違ってはいない感覚だと思う。要は時代の流れの伴って可能性が狭まってばかりいるから、当然そこから弾き出される人数も増えるというわけである。もはや現代は「常に何かに飢えている」時代ではない。物に恵まれ、そうでない人でも簡単に飢え死する環境ではないから、若者に何が何でもというモチベーションが希薄だという側面もある。
そういう意味では、現代の若者が充実して生きて行くという事はかなり厳しい事だと思う。
だからこそ「精神力」で心を折らずに「スキル」を発揮するという生き方を貫く事が求められるのではなかろうか。ま、実りある人生を全うするには、いつの時代でも相応に厳しい戦いがあるという事は確かなようである。
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