温故知新シリーズ 09
私は特に信仰を持っていません。唯一の宗教体験は、幼稚園がキリスト教(プロテスタント)だった関係で少しかじってみた事があるくらいです。そんな私がこの分野でマトモな見解を述べられる道理もありませんが、何分 「私的想像の世界」 という事でお許しを。
普段は特に宗教を持っていない人でも、ここ一番という時や思わぬ幸運・不運に見舞われた時、何か見えない力の存在を意識する事ってありませんか?
ある人は 「絶対的なもの、あるいは何かわからない大きな力に対する畏怖の念は、もともと人間の遺伝子(本能)に組み込まれているもので、それゆえ時に神や霊魂の存在を意識させる」 と言ってます。もしかしたら西洋人の創造した宗教における 「神」 は、絶対的な存在を擬人化し 「神」 と称した方が、万人に解りやすいからと誕生したのかも知れませんね。
私は満天の星空を見ていると、そこに吸い込まれそうで怖くなります。漆黒の無限空間を仰ぎ見て脳裏に浮かぶのは、なぜか手塚治虫の 「火の鳥」 です。読まれた方はお解りでしょうが、無限の命を宿す 「火の鳥」 の本体は無数の意識体が集まった宇宙でした。この天才の作品を読んでからは、物理的な肉体は有限でも、意識体というのは無限に存在し得るという概念が何となく理解できるようになりました。
人間は頭脳的には高等生物だけれど、自然界での存在としては非常に弱く、弱いから恐れ、迷いが生じます。高等な頭脳を持った弱者が求めるもの、それは絶対的な強さや絶対的な存在なのでしょう。それを敬い、それにつながろうとする者、あるいは自らそれに近づこうとする者、その手段として「宗教」というものが生まれたと思うのです。
そんな私の想像する天国と地獄とは以下のような感じです。
肉体が滅びる時、その意識は最も大きく持っていた思念の波長を宿しています。波長が合う意識同士は、磁石のように引き合い、それが集まって火の鳥の本体のようにひとつの宇宙を形成しています。さらにそれはまるで銀河系のように、感情や欲望の種類毎に異なる小宇宙として、それぞれ似たような波長を持った意識体が互いに影響しあって存在しているのです。類は友を呼ぶ、の通りです。
これを外部から視覚的に見ると、波長の関係からか善意の意識体は明るく、恨みや欲望の意識体は暗く見えます。まるで銀河と暗黒星雲かブラックホールのように ・・・。それが私の(科学的?に)想像する天国と地獄のイメージです。
この世界でも、明るい気持ちや幸せを感じるのは楽しいし、気分が良い事です。憎しみや恨み事を抱えたり、満たされぬ欲望の虜になっているのは辛い事でしょう。でも逆に見れば、自分を律しながら、善意や幸福感を持ち続ける事は結構キツく、いつでも感情の赴くまま欲望の赴くまま振舞うのは楽だとも言えます。
意識体の宇宙も、もともと気の合う意識の集合体ですから、それが善であっても悪であっても、そこは気分の良い居心地の良い世界です。また、同じ波長で固まった意識体の宇宙ですから、永遠にその状態は変わらないでしょうし、変わる必要も無いでしょう。こうして全ての意識体はどこかの宇宙に所属し、永い時間を過ごしているのです。
そのかわり、いったん取り込まれた意識体の宇宙からは簡単には移動できません。特に、波長(意識レベル) を高い方へ変えるには相当な時間とパワーの積み重ねが必要です。ある意識体が自分の波長の誤りに気が付いてそこから抜け出そうと試みても、よほどの強いエネルギーがない限り (あるいは与えられない限り) もはやその引力から脱出することはできません。
脱出できなければさらなる永い時間、いやでも同じ意識でいなければならず、ますます辛く苦しい事になります。その辛さ苦しさに負けて波長が落ちればさらに奥へと引き込まれ、最後にはブラックホールのような暗黒の意識体の宇宙へ取り込まれて行きます。これがスター・ウォーズで言えば「ダークサイド」、仏教で言うところの 「無間地獄」 なのでしょうか。
人の一生はそれぞれが全て違います。どんな心を持ち続けているか? どんな行動をしているか? 自然や人とどう関わっているか? 何を果たしているか? などなど、意識の波長に影響する要素は数限りなくあるでしょう。生きているという事自体が、すでに大いなる 「Trial」なのかも知れません。自分の意識の波長は、最終的にどう決定されるのでしょうか? そしてその意識の行く先は・・・。
さて、あなたはどう生きますか?
(2002年2月 記)
・・・・・・・
あれから7年半、齢50も過ぎればこんな事を考える時間が多くなっているなと、最近つとに感じる。
これは私が初めて作ったホームページに書いたエッセイの中でも最も小難しい文章で、それでも日頃からどこかにこのイメージを抱いていたからこそ書けた文章でもあった。
私自身はさほど「生」というものに執着は無い。人はもれなくどこかで必ず一度死ぬ運命にあるのだから、たとえそれが明日であっても静かに「そうですか」と受け入れられると思っている。周りの連中にもよく言ってる理想の死に方は「ドンチャン騒ぎで疲れて眠りに就いた翌朝死んでいた」である。
だから私にとって最も恐れる未来の姿は、認知症と寝たきりだ。こうなると周りに致命的な迷惑をかける事になる。認知症ならまだしも、意識を持っていながら身体的障害で寝たきりにでもなったら、情けない己の姿と周りの大変な様子が分かっていながらも、どうにもできない現実というものに苛まれ続けるのである。
家族には、もし私が倒れていても2時間は救急車を呼ぶな、ガンになったら一切の治療は放棄して直ちに緩和ケアだと事あるごとに言っている。現代医学では、患者の状態はお構いなく、とりあえず生かす事こそが正義のように思われているフシがある。患者は何が何でも「生かされ」てしまうから、完治が見込めないのに苦痛だけ与える治療や検査、果ては植物状態にあっても生かされて、気がつけば人としての尊厳など二の次になっているケースも少なくない。
私は病気や事故によって肉体的に失われるであろう生を、自らの選択によって終わらせる権利があっても良いのではと思っている。必ず訪れる死というものを、意識のあるうちに迎えたいと思っている人に迎えさせてあげる事は、決して犯罪ではないと思うのだ。もちろん自殺とは別次元だ。その人はただ生かされる事よりも、自らの意志によって終わりを迎える選択をしたに過ぎないのである。
「昔ならとっくに死んでいた」という時点で死を迎えられる、そんな日が訪れる事を願っている。
- 関連記事
-
- 温故知新シリーズ 11 (2010/01/24)
- 温故知新シリーズ 10 (2009/10/22)
- 温故知新シリーズ 09 (2009/09/26)
- 温故知新シリーズ 08 (2009/09/02)
- 温故知新シリーズ 07 (2009/08/18)