温故知新シリーズ 07
「心にある風景は、いつも美しく思い出される」 という言葉があります。何かの拍子にふと思い出される美しくも懐かしい風景 ・・・これを 「心象風景」 と呼ぶのでしょうか。
暮れからの帰省の折、ちょっと足を延ばしてそんな場所の一つに行ってきました。越境入学をして通っていた小学校です。電車で2駅、バスで5分、徒歩でさらに5~6分の所にあります。決して遥か遠くの場所ではないのですが、小学生当時の私にとっては隣の県への電車通学は結構な距離を感じていました。やがてタレントの小堺一機が出たことで少し知られるようになるこの小学校ですが、公立でありながらも私と同類の越境組は何人もいました。私のクラスにもいて、帰りは一緒に帰ったものです。
車を降りて、バス停から当時の通学路をゆっくり歩いて行きました。細い路地のような道です。この脇にあった古本屋、あの家の裏にあった駄菓子屋、その角にあった八百屋、憧れて毎日覗いた庭付きの家・・・それらはみんな消えてしまっていたのです。当時の面影を残す景色もわずかにありましたが、年月による様変わりはこんな地味な場所でも避けられなかったようです。でも、この路地のような道だけは、変わらずに続いてました。
思ったより短い距離を歩いて学校の前の川に着きました。 「桜堤の花明かり・・・」 と校歌に歌われた桜並木の土手は、ずいぶん前の護岸工事でコンクリート堤となり、桜の木もまばらになっていました。橋を渡った所が、卒業時にようやく鉄筋に建て替えられつつあった母校です。もうそれも古びたと言えるほど年季が入っていました。
木製から鉄製に変わった朝礼台、その横の杉の木は今や校舎と並ぶくらいの大きさに成長してました。父兄も一緒になって必死に集めたベルマークでもらった回旋塔とジャングルジムは姿を消し、横綱佐田の山を迎え土俵開きをした土俵は、砂場の横に引っ越してました。校庭の土までは変わってなかったように思えました。あの頃踏みしめた所を確かめるようにゆっくりと歩きながら、優等生なんかじゃなかった当時の自分の姿と友達や先生方の顔が交錯し、当時と景色こそ違っても不思議と空気の臭いは一緒だなと感じていました。決して狭いわけではない校庭でしたが、すぐに一周してしまいました。
近くに小さいながらも歴史のある稲荷神社があります。下校途中によく寄り道して、境内に来る紙芝居屋に群がっていたことを思い出しました。片隅に、型抜きという遊びに夢中になって座っていた石が、だいぶ擦り減りながらもそのまま残っていました。改めて今そこに座ると、また同じ空気の臭いを感じました。
当時、ずいぶんと遠回りしたなと思っていた江戸川辺りまでも、あまり時間がかからず着きました。こうしてみると、当時の行動範囲は小学生にしては結構広かったように思います。でも今では、そこは立ち並ぶ新しい家々に阻まれ、川はおろか土手さえどこにあるかわかりませんでした。 ・・・雪の日に手製のソリで滑り降りたあの土手が。
・・・そうそう、当時は長屋住まいや呼出電話なんて珍しくなかったし、ツギ当て半ズボンやセーターも普通だったよね。先生が怖い存在なのは当たり前だったし、先生方は親達からしっかり信頼されていたよ。信念を持った聖職者だったと思うよ。ウチの親なんかも 「死なない程度にひっぱたいて頂いて結構です!」 なんて言ってたし。結構ワルさもしたし、本当にひっぱたかれもした。でも先生にどんなに怒られても、学校を休むヤツなんていなかったよね。ぼくらの一日は、学校へ行くことから間違いなく始まってたし、校庭一番乗りが自慢だったよ。不登校や引きこもりなんて、言葉すらなかったよね・・・。
もしかしたら、生まれ育った故郷とは別に、もう一つの心の原風景を持っているというのは、ある意味とても贅沢なことなのかもしれません。懐かしいんだけれども、今の自分にはちょっと場違いような感じ・・・。しばし佇んでいるとまるで時間が逆戻りするかのような不思議な感覚・・・。別の世界にいても、すぐに距離と時間を越えて戻って行けるような場所・・・。
そんなことをぼんやりと考えながら車に戻ったのは、冬の早い夕暮れ時でした。
(2002年1月 記)
・・・・・・・
小学校卒業は昭和45年の3月。改めて数えてみれば40年近くも前、まさに昭和の真っ只中の事だった。
小学校に入学した年は東京オリンピックがあった。千葉街道で旗を振った記憶がある。卒業の一年前にはアポロ13号による人類初の月面着陸だった。視聴覚授業でその中継を見た記憶がある。卒業した年は、その時持ち帰った月の石と岡本太郎作の太陽の塔で沸いた大阪万博があった年で、大阪まで「夢の超特急」と言われた東海道新幹線に初めて乗った時でもあった。そんな機会でもなければ東京から大阪へ移動する必要など無かった時代である。それほど日本の東と西はまだまだ離れた土地だった。
またこの時代は、木造校舎から鉄筋校舎、土手の護岸工事などで木や土からコンクリートへ替わりつつあった高度成長時代でもあった。小学校の終わり頃、中学校の終わり頃、千葉県と東京都の違いで時間的差はあったものの、いずれも木造校舎から鉄筋校舎へと改築が行なわれた。
木造校舎と言えば、何と言っても床掃除。家からキッチンハイター(漂白剤)を持ち出して、それをバケツに薄め、タワシで床をゴシゴシ磨く。ワックスなど無視、濡れた床が一夜明ければ見事な白木の床に大変身! このワザ(?)で、中学の時の校内清掃コンクールでブッチギリ優勝を果たした。それもこれも木造校舎ならではの思い出である。
・・・こんな昔話をする私も、やっぱり古い人間なんでございましょうかねぇ。(by鶴田浩二)
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