つれあい
それはどうでもいいが、夫婦の有り様を表す言葉もいろいろある。代表的なものは「夫唱婦随」とか「偕老同穴」だ。どちらも夫婦の双方が、それなりの覚悟を持って生き抜いていく様を表す言葉だと私は理解している。それゆえ「つれあい」と呼べる関係こそ、それらの言葉が自然に受け入れられると思うのである。そうは言っても、まだ胸張って言い切れない自分がいるのも事実だ。
恋愛の初期には、ホレたハレたが全てだというのは理解できる。それしか見えない状況も同様だ。それは正常な男女であれば誰にもある事だ。それでもそれが一段落すると、生物の本能である「播種本能」、すなわち残したい遺伝子だと感応したメスと交わりたいという本能に、オスはいつでも触発される。…残念ながら人間社会では「浮気」と呼ばれてしまうが。
生物学的に弱い、すなわち生存能力の脆弱なオスは、弱いながらも生き残れた個体が、より多くの機会を捉えて子孫を残さなければならないのであるからして、優秀なメスに寄っていく。それは本質的には生物としてのオスの本能であるからして、人間社会のモラルの面から責めるだけではあまりに不憫である、と思うのだが…。
それはさておき、夫に奥方を「つれあい」と呼ばせる関係とはいかなるものであろうか? 私もこの世代になって、おぼろげながらイメージできるようになったかな。
表面的にも肉体的にも、見たものに惚れるのが恋愛という時期だとしよう。その後、うまくゴールインして社会で言う所帯を持つ。それが落ち着いた頃、心の中に何が始まるのだろうか? お互い、いつまでも最初のワクワク・ドキドキ感が持続するワケはあるまい。そんなものはそう遠くない間に収束される。本質はその後である。
では、何があるのか? それが「時間」と「イベント」の共有なのである。同じ時間やイベントを共有した間柄というのは、強力に結びつく。出会いの時のファーストインプレッションや不安と焦燥感を抱えた思いとは全く違う世界の時計が、お互いの人生を共有した時から動き始めている。「歴史の共有」と言いかえてもいいだろう。
それを私は「いずれ空気みたいな存在に至る過程」と表現したい。空気は、普段はその存在を意識させない。だけど、いざなくなれば窒息する。生きていく上で絶対に必要なのである。年代を経た夫婦とはそんなモンじゃなかろうか。もはや浮ついた色恋感情なぞはナンセンスで、それを超越した価値観こそがどっしり根付くのではなかろうか。お互い寄り添って、あるいはぶつかり合ってきた歴史を通じて。
今回の大阪出張、久しぶりの天満の焼肉屋で変わらぬテッチャンの味を満喫しながら、そんな事がふと頭をよぎった。人と人の交わりを一期一会、他生の縁と言うが、つれあいと呼べる仲でのそれは、言葉以上の味が醸されているに違いないと信じたい。
せっかくだから、いつかはそうなりたいわな。
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