ダークサイドを覗いたか
TVを観て、ドラマでは俳優が悲喜こもごものストーリーを演じている。バラエティではタレントが楽しげに騒いでいる。スポーツでは選手が必死の眼差しで躍動している。
ふと部屋を見渡せば、そこに趣味のアコギや楽譜、いずれ観たいと買い込んでいた映画やライブのDVDや書籍が置いてある。
たが、今の私はそれらに対してこれまでのような興味も歓心も湧いて来ない。ただひたすらソファに横になっているだけである。
大晦日前に膀胱炎が勃発し、いったんは軽快したと思われたものの、元旦に母親宅へ行ってから痛みが大きくなり、ほうほうの体で何とか運転して帰宅した。最悪の年明けになってしまったのだ。
翌朝に至っても痛みは収まらず、遂には初出勤を欠勤せざるを得なくなった。翌日は公休日なので次の出勤日は二日後だが、それまでは痛みの再発を恐れつつ安静にしている。
ふと心が呟く。
目に入る自分以外の人達はそんな痛みなど無縁で皆楽しそうに動いている。方や自分は…。
ひたすら飲み続けるお茶と頻回の排尿、そして安静のおかげか、現在膀胱炎は沈静化しているように感じる。だが、いざ出掛けようとするとまたも痛みが勃発するという経験をこれまで何度もして来たから全く安心出来ない。体調はその時になってみなければ分からないのだ。
そんな気持ちを抱えて再び目に入って来る自分以外の人達の楽しそうに動いている姿。方や自分は…。
心が呟く。
もしかしたらこれって精神的な病み、すなわち鬱というものなのか。
かつて向精神薬を学んだ時、鬱なんてどれだけ心が折れたらなるのか、多分自分のようなキャラは一生縁はないだろうななんてうそぶいていたのを思い出す。
だが今、その入口に立たされた感触というものが分かるような気がする。最悪全摘が待っているかもしれない持病との闘いに加え、ここ数ヶ月繰り返している膀胱炎もいまだ終わりが見えない。
一方で携わっている仕事は私がいなければ出来ない業務内容があり、ただでさえ人手の足りない現状では他のスタッフに迷惑を掛けるだけ。もちろんお店を訪れるお客さん達にも。
その日にならなければ分からない体調、先の見えない持病の予後、休むほどに迷惑を掛ける職場。こんなメンタルを抱えていては見るもの聞くものに興味や歓心を抱けるはずもない。興味や歓心は自分に余裕があってこその感情なのだ。
これが高じると、きっと周りどころか自分自身さえ否定してしまうのだろう。こんな自分なんて存在する意味なんてあるのか。いや、存在すべきではないのだ、と。
今はそこまでの感情が芽生えはしないし、鬱の入口の自覚と共にそれを第三者的に観察出来ている間は鬱のダークサイドに足を踏み入れてはいないと言えよう。期せずしてダークサイドを入口から覗いてしまったかもしれないが。
逆にひとたびこの入口を超えてしまうと、おいそれとは外へ出て来れないだろうなという予感もする。ここを超えてしまう人はきっとその自覚を持つ余裕もなく気がついたらスッと入ってしまったのかもしれない。先の見えない不安は確実に人の心を削って行き、いつしか心の負荷の蓄積が許容量をオーバーフローしてしまったという事だろう。
鬱という病態が科学的には脳内の神経伝達物質の異常であるゆえ、病態が固定されてしまえば向精神薬の助けも借りつつひたすら心を解き放って休養を取る以外に回復する術もないという理屈も今なら容易に理解出来る。
私にとって今一番の問題は膀胱炎の強い痛みからの解放の時である。それがいつ訪れるのか。いつまで繰り返されるのか。おかげでいつのまにか肝心の膀胱がんの悪性細胞も何処かに行ってしまった感じだ。だがその闘いが終わったわけでは決してない。そんなこんながある限り、僅かずつであっても心は削られ続けているはずである。
ついぞ鬱なんて縁のない人間だと信じて疑わなかった私が、これほど唐突に鬱を意識させられるほどの日が来るとは思わなかったし、こうなると鬱はいつでも誰にでも口を開けている疾患だと認識せざるを得ない。まさか自分だけは、は単なる奢りに過ぎないのだろう。
とまあ、ここ最近の思うところをつらつらと書いて来たが、こんな事を書いていられるくらいだから、どうやらまだまだ私は大丈夫だ。そして切に思う。
明日は今日よりせめて少しはマシであれと。
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