普通に接するということ

26日未明に起きた、相模原市の障害者施設の介護職員だった植松聖(26歳)による死亡者19人に及ぶ殺傷事件。犠牲者数が戦後最大となる殺人事件であり、その犠牲者が施設で睡眠中の障害者という点でも特異だった。障害者をターゲットにした彼は、勤務中の2月に重複障害者の安楽死容認発言をし、措置入院時の尿検査で大麻の陽性反応が出ていた。しかし10日余りで退院していた。

その4ヶ月後の犯行は、わずか数十分の間に就寝中の障害者45人の首などを次々と刃物で刺して行くという、そこに一切の躊躇の念すら生じない機械的な蛮行だった。

ニュースでは、逮捕された車内での薄ら笑いを浮かべている顔が繰り返し映し出された。そこにはヒトラーの思想が降りてきたとのたまう金髪の異様な面構えがあった。まるでテロリストのようだと言ったコメンテーターもいた。

この事件をキッカケに改めて障害者の存在や接し方などの議論が持ち上がっている。

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思えば、私と障害者との接点は小学校時代に遡る。私の通っていた小学校には特殊学級(特別学級)と呼ばれたクラスがあった。同じ校内で同じ時間帯に活動しているため、時々特殊学級の生徒と廊下ですれ違ったりはしていたが、彼ら彼女らと積極的なコミュニケーションを取る事はなかった。自分たちとは別世界の住人という意識で、はっきりと線引きをしていたのかもしれない。

逆に特殊学級にこそ入ってはいなかったものの、自分たちとは明らかに変わったキャラクターの普通学級の生徒がどのクラスにも一人二人いた。普段はほとんど口すらきかないのに、何かの拍子にその級友にちょっかいを出したり囃し立てたりする者がいると、彼が怒ったり喚いたりするのを面白がる。興奮のあまりハナちょうちんを膨らませながら泣こうモンなら大ウケのショータイムとなった。

そんな級友に対する周りの接し方は、今で言えばイジメとも呼ばれるような部類に入るだろう。だからと言ってそれがエスカレートしたり陰湿化するという事はなく、相手もまんざらでも無い様子が見られて最後には笑い合ったり。まあ、それが善かれ悪しかれ、あの頃の小学生の日常のひとコマだった。

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障害者との日常における本格的な交流は、昨年まで勤めていた会社の同僚として盲目の女性が配属された時だったと思う。事前に本まで買って学習したはずの私からして、当初の彼女への接し方はぎこちなく、さりとて同僚としてノータッチというわけにもいかない、文字通り中途半端な感じだった。ただし、彼女は不幸な過去を経て来たイメージの、いわゆるステレオタイプの障害者とは真逆のキャラで、何とロンドンパラリンピックのゴールドメダリストでもあった。そこらの健常者が逆立ちしても太刀打ち出来ない偉業の達成者だったのである。

やがて彼女との仕事やランチタイムのコミュニケーションなどを通じて、彼女に対する接し方という事にも慣れては来たのだが、その間、私が考えていた事があった。それは視覚障害者をリードする時は手を引いてはならず(手を引かれると非常に不安になるという)、肩か腕に手を置いてもらって声を掛けながら移動するというテクニカルな部分ではなく、いかに自然に健常者同士のような関係が作れるかという事である。

多くの人々が言う、障害者も健常者と同様に接するべきだとの意見には同意出来る。しかし実際の場面に立ってみると、それは意外と難しい。我々の視覚や聴覚から窺える相手の障害の種類や程度にどうしても意識が行き、それがゆえに積極的な接し方を避けてしまうのである。そうでなくても何となく恥ずかしいような、半分腫れ物に触るような感覚がある。実はその時点で、それが即ち障害者に対する無意識の「上から目線」だという事に気が付けばまだ良い方だ。

それを乗り越え、健常者同士のような接し方、いや、付き合い方になるためにはどうするか?

まず相手に親しみを持ち、相手にも親しみを感じてもらう。初対面の相手なら、最初に交わす一言二言がポイントになる。つまり、交わす言葉によってお互いの距離感を少しでも縮める。そうすれば自ずとコミュニケーションが進み、相手の状況に影響されない普通の付き合いとなって行く。

あれ? これって、健常者同士の場合と全く変わらないじゃないか。

つまり、相手が障害者だからといって、その障害をサポートしてあげようという方向からのアプローチは正しくなく、まずは親しみを感じ合えるように距離を縮めれば、相手の持つ障害へも自然な手が添えられるに違いない。

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そんな経験が活かせる場面に遭遇した。

私の勤務しているお店には、時々盲目の小柄な女性のお客さんが来る。彼女は30代だろうか、抱っこ紐に赤ちゃんを抱いて、さらに幼稚園児の娘を連れている。その娘も片眼が不自由のようだ。そんな娘と共に彼女一人で狭い店内で買い物を済ませる事は至難なので、入口に近い場所が定位置の私が来店に気付いた時にはエスコートする。

過去の経験から肩に手を置いてもらい、声を掛けつつ移動するのはスムーズに出来た。最初に買いたい物を聞き、そこへ移動しては数種類の商品を手短に説明し選んでもらってカゴに入れる。これを繰り返し、最後にレジへと誘導し、レジが済むのを待って出口まで誘導し、段差やスロープをクリアしてお見送りする。

彼女は私の声を覚えて認識しているのだろう。2、3度目からは(彼女には私の顔は決して見知る事は出来ないが)顔見知りのようなやり取りになり、さらに何回か繰り返すうち、最初は無口だった娘も慣れて来て、最近では「バイバーイ」と手を振り合うようになった。もちろんエスコートはしているが、もはや私の意識には彼女が障害者という感覚はなく、ごく普通のお客さんの一人だった。これも今の仕事で得られた喜びの一つである。

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もう一人、お店のスタッフに軽度の知的障害者の女性がいる。

障害者雇用サポートの担当者から、彼女は記憶するという事が不得手だと聞いた。会話や行動は普通に出来るので、主に担当エリアの品出しや整頓、フロアのモップ掛けなどをやりつつ、お客さんからの担当外の問い合わせには他のスタッフへリレーしたりしている。

そんな日々が2ヶ月も過ぎた頃だろうか。彼女は時々お店を休むようになる。体調不良なら仕方ないが、母親から「ちょっと出掛けるのでお休みします」なんて電話があったりする。さらに彼女はお昼の休憩時は外食に出るのだが、その戻りが徐々に遅くなって来たりする。朝の出勤時間もそうだが、ギリギリの時間では彼女のユニフォームである前掛け型のエプロンをフロアに出て歩きながら着用する事になり、いつの間にかそれが普通の光景となった。

私はもはやスタッフの指導や育成などの管理責任のある立場ではない。自分の職責さえ全うしていれば良いとされる一人のスタッフに過ぎないから、大抵の事には目を瞑りつつ極力言行穏やかに、簡単に言えば自分を抑えて過ごして来た。だが彼女との共働時間を重ねるに連れ、彼女が知的障害者であろうがなかろうが関係なく、仕事で賃金を貰っている限り、ここは言わなくてはならないと思うようになった。でも地の私のように直球は投げない(笑)。

出勤時間ギリギリの時には、「ギリギリだと慌てて階段から落っこっちゃうよ。もうチョイ早めにね」

エプロンを着ながらフロアに出て来れば、「エプロン着ながら歩いているのをお客さんに見られたらカッコ悪いでしょ? ちゃんと着てから出て来るようにね」

手持ち無沙汰のようにフロアをウロウロしている時には、「○○さんの担当製品の陳列位置は覚えられた? お客さんに訊かれた時にスッと答えられたらカッコイイよね」

彼女の開店直後のルーティンワークである店前のホウキ掛けも、今のところ言わないとやれていないから、彼女のいる朝はしつこいくらいに毎回声を掛けるようにしている。「○○さん、オモテ、ホウキ掛けてくれた〜?」

今日などは、フロアのモップ掛けを同じルートを何往復もしているので、これまた一言、「何度も通るとお客さんの邪魔だし、しっかり一往復すればOKだからね」

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ものの本によれば、たとえ知的障害があったとしても、手を抜いたり楽な方に流れるという人間の本性は持っているという。自分はハンデがあるから、これはこれでしょうがないんだという考え方もあるらしい。彼女の場合は、担当する仕事がひと段落した後に、ルーティンワーク以外に何をすべきかという判断力がうまく働かず、手持ち無沙汰状態に陥ってしまうのだろうか。だから仕事をしているようにあちこち移動しては陳列整理をしてみたり、モップ掛けを何往復もしているのかもしれない。

「私は障害者だ。だがそんな私が普通に生活するには、この社会環境では全く不十分じゃないか。だから周りの健常者は当然自分達をサポートすべきだが、それはこちらが主張しなければ彼らは気付かないのだ」

これが高じると、例の五体不満足君や前社の別の部署の身障者君のような傲岸不遜と捉えられるようなキャラが出来上がる。これでは前提となるコミュニケーションもヘチマもあるまい。彼らが健常者であったらなおさら距離を縮めたい相手とは思えないキャラだろう。彼ら障害者側も考えるべき課題があると思う。

「普通」に接するのに健常者も障害者もない。人と人のコミュニケーションで距離が縮めれば、おのずといい付き合いになると信じている。

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本日の出勤前に投票して来た都知事選。

いつものそれとは違った展開となり、先出しジャンケンの小池百合子氏が、後出しジャンケンの自公推薦候補の増田寛也氏と野党統一ダッチロール候補の鳥越俊太郎氏を尻目に、開票瞬間に当選確実とした。マスコミは初の女性と知事と騒いでいるが、都民は今回もある意味の消去法投票を強いられたという感想を持ったのではなかろうか。

所詮、完璧な人間などいないように、完璧な候補者など現れるワケがない。だから誰でもいいはずはなく、誰でもよくないからこそ、投票という意思表示が大切なのである。

もっとも、彼女の気性とプライドから、早々と議会と揉めて不信任決議案と議会解散の応酬とならぬようには願いたい。

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ウルフが逝った。

アラ還の年代で膵臓がんを患っていたから正直ヤバいなと思っていたが、やはりダメだったか。大横綱千代の富士。53連勝を含む通算1045勝を挙げ、1991年、後の大横綱貴乃花(貴花田)に引導を渡されて引退。筋肉という鋼の鎧を身にまとい、身体の大きさで勝負するのではなく技のキレとスピードで勝負するから、彼より勝ち星の多い力士はいても、彼ほど強く見えた力士はいなかった。合掌

それにしても享年61とは。今の私の年齢であればこそ、その早さが一層身にしみる。およそ二人に一人が何らかのがんに侵されるという現代であればこそ、その切実さが身につまされる。



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Chaie<チャイ>

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最初のWebsite開設は2001年のクリスマスのことでした。その後、紆余曲折を経てこのBlogへ引越して今に至ります。これからも日々の記録とさまざまなテーマについての意見や感想などを屁理屈コラム日記風に綴りたいと思ってます。

生まれも育ちも東京の下町です。東京タワーやチキンラーメンと同い年なので結構生きてますが、せめて精神年齢くらいは若いつもりでいたいなと。

自称「日本酒のソムリエ」のつもりでしたが、検査値との闘いの末に禁酒に踏み切り、それ以来かなり普通の生活を送ってます。

下手なアコギとウクレレを弾いて昭和を歌ったり、カラオケでも昭和を歌ったりしてます。最近は40年来の憧れだったMartin D-28Mと80年代製のKamaka HF2に囲まれて幸せです。

もうひとつの大好きは欧州車! プジョー乗りのサークル「POOB(プジョー太平洋OYAJIベルト)」の関東地区元締めなるものをやってます。

実は、足掛け10年乗って来た愛車「プジョー206XS」のミッショントラブルにより箱換えを余儀なくされ、ここでも紆余曲折を経てゲルマン製装甲車のような「BMW120iCoupe」を新たな愛車としました。

それをキッカケにBMWオーナーズクラブの「Club BMW 1(CB1)」「BMWメタボ白髪連合会」などのメンバーにもなりました。

某企業のプロフェッショナルな研修職人を目指して定期的に全国を飛び回ってましたが、ステージを替えて今後は頼れる薬局のOYAJIを目指したいと思います。

愛と情熱を持ってはっきりモノが言える「熱きガンコジジイ」になりたい!

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