昨日の明日が今日になり
今日で56回目の誕生日。昔は遥か先にあるんだろうけれども全く見えなかった「還暦」という節目にも、あとわずかオリンピックインターバル1回分の時間となってしまった。もっとも明治時代の日本人の寿命はせいぜい50代だったというから、これでも人並みの時間は生きて来られたという事なので、それはそれでメデタイと言えなくもない。
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肉体的な衰え以外は歳の割には若いと自負している。特に精神年齢は実年齢マイナス20歳くらいで留まっているなと感じる事が多々あるのだ。
人間関係はロジックよりもエモーションで反応する、モノを言う時はヒネリの一つも効かせず直球を多用する、人の言葉は良くも悪くも額面通りに受け止めてウラ(真意)を読まない、議論では必ず自分の考えを述べてから結論を求めたがる、などなど。
こうして論ってみると、精神年齢が若いと言うよりも多分にガキのまま停滞していて大人になりきれていないとも見える。どっちみち、この人格はもはや変えようもないと達観しているあたりは大人かも。
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死生観という言葉がある。
人はどう生き、どう死ぬのか。生き方は人それぞれ、人生いろいろなのだが、ひとつ言えるのは、生きて行く先の事は分からず、生きて来た過去は変えられないという事。だから人は未来の人生に希望を抱き、過去の人生から成長する。
過去によって人が成長する限り、後悔のない過去なんてあり得ないだろう。「青空」という私の好きな歌がある。作詞作曲は谷村新司。
雨は空からあざけるように 心の中に降りしきる
雨よお前は知らないだろう 傷つき悩む人の心を
昨日の明日が今日になり 今があるから夢を見る
雨よお前に負けはしない 雲の彼方はいつも青空
もうひとつ言えるのは、人は必ず一度死ぬという事である。実はこれが今、自分自身に一番刺さる言葉だったりする。
誰しもいつかは終わりの時を迎えるが、私は長生きという事に拘りを持たない。ただ願う事は、出来ればあっさり穏やかに終わりを迎えたいという一点である。普段から周りに言っている、前の晩にドンチャン騒ぎをして眠りに就き、翌朝になったら死んでいたという終わり方が理想だな。
苦痛に耐えながら息をしているだけの毎日は生きているとは思わない。動かぬ身体に辛酸を舐めさせられながらの毎日も同じだ。無責任な自殺以外なら死因なんて何でもいい。日本人の2人に1人は罹るという癌なら、治療なんて一切せずに緩和ケア直行でいいし、脳出血や急性心筋梗塞でもいいし、極端な話、事故による即死でもいい。免罪符は「昔ならこれで死んでいた」である。
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さて、今夜は珍しくカミさんから誕生日祝いの食事をと言うので、それならまた新規開拓とばかりに彼女のセレクトで荻窪のフレンチへ。それが分かっていながら、会社の前にあるイタリアンのランチ(バーニャカウダorグリーンサラダ、パスタ、パン、コーヒー)をパンお代わりで平らげてしまったダメな私・・・。
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