実家の移転が決まった日
店は祖父の代から続いている薬局だったが土地は借地だった。昔の商店街は近所づきあいも盛んで、近所の同年代の子供同士でもよく遊んだものだった。今見たら相当狭いアーケード街の路上で三角ベースボールやら足こぎカーレースやらをやっていたのは、今だに信じられない事だったと思っている。
私が越境入学で千葉県市川市の小学校へ通っていたある日、ふと見た家の庭を指差して「芝生のある家に住みたい」と親父にのたまったそうな。ヘタすると一日中陽射しを浴びない事もあるアーケード街での暮らしに疑問を持っていた親父は、松戸市郊外の新興住宅地の一角に広い庭付きの家を建てた。私が小学校5年生の頃だった。
もともと週末を過ごすのが目的の家だったから交通の便などは二の次、カッコ良くいえば近場の別荘的な存在だったのかもしれない。普段の飲み物は牛乳くらいしか許されなかった我が家だが、そこに行けばビン入りのコーラやファンタやサイダーが置いてあったので、子供心にも喜々として通ったものだった。
やがてアーケード街の店は、地主の世代交代によって底地権を買ったものの、時代はヒグチなどのドラッグストアが幅を利かせて来た頃だった。個人経営の小売薬局の限界を予知した親父はそこを売却し、相談専門薬局へと進化を図るべく千葉県の新松戸という所へ住居兼店舗を構えた。この家が松戸市初の木造3階建てだったという事もあって、なかなか認可が下りなかったというのも懐かしいエピソードだ。
「オレは小学生の頃から店番をしていたから、とっくに定年でいいんだ」と言って、店を閉め売却して例の庭付きの家へ引っ込んだのは、不肖の息子が店を継がない事が確定的になった頃だった。
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そんな親父が今年の2月に亡くなり、家には母親と妹の二人が残された。それはそれで自然の流れである。
ところがこの家、新小岩時代の知り合いの大工さんに頼んで建てた、漆喰の壁やセントラルヒーティングといった当時としてはかなり気合の入った家だったものの、いかんせん築40数年のシロモノだ。床の沈みの補修も追いつかない上に初夏に到来した台風によって屋根の一部が飛ばされるという事態に至り、ついに母親は駅近のマンションへの転居を決意したのだった。
新小岩時代から新松戸時代とその折々に別邸として、あるいは移動の中継場所としての役割を果たして来たこの家が姿を消すのは何とも偲びない思いも湧くが、これも時の流れである。形あるもの、いつかは土に還るというものだろう。
バブルの恩恵などとっくに飛び去ったこの土地の評価は決して高いものではなかった。ただ高台角地の100坪近い面積だった事が地元デベロッパーの目に留まり、建売住宅用地として購入したいというオファーがあった。提示価格も概ね相場基準を踏襲していた。
ならばお次は駅近マンションの購入である。幸い、比較的近い所に適当な物件が出た。築年数も浅く、オーナーが女性という事もあり、母親も気に入ったようだった。
そこから両売買を担当する大手住宅会社の営業マンとの話し合いが始まり、私も同席した。数回の折衝を重ね、昨日ようやくこちらの条件が盛り込まれた契約に至った。メデタシメデタシ。
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と、ホッとしている間もなく、我々は別の問題に直面する事になる。
現在住んでいる家は総床面積150平米超の広い家、引っ越すマンションはその半分程度の広さ。という事は、マンションの収納も考えると、今の家にあるもの全てのおよそ70%は処分しなくてはならない計算になる。それを1ヶ月ちょっとのうちに済ませなければならないという時間との勝負が発生したのである。
ただでさえモノを捨てられない母親が、家が広いのをいい事に溜め込んだ量はハンパではない。それを80歳目前の母親と仕事で家を空ける事の多い妹でやり切れるはずもない。男手は私とせいぜい二人の息子くらいだ。だが息子たちは地方住まい、もちろん私とてしょっちゅう全国を飛び回っている身なので、マトモに動けるのは休日くらいしかない。
かくして私の貴重な休日は、持って行くものと思い切って処分するものの仕分け作業にそのほとんどを費やす事になったのである。
年寄りの引越しは得てして気分的に大きく影響し、うつになる可能性も高い。だが、暮らしのダウンサイジングによる手軽さと駅近による行動力アップは少なからぬ喜びともなるという事を信じようと思っている。
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