ツイッターの快楽と憂鬱
その最たるものがツイッターである。元来、私はコイツがどうにも苦手なのである。
ツイッターはツイート呼ばれる、自分の言いたい事を自由に書き込める掲示板のようなスタイルをとっている。また、自分だけでなく他の人のツイートをフォローする事でその人の意見が見られるので面白い。それぞれの間で意見交換も可能だ。
ところがこのツイッターというヤツ、mixiやFacebookと似ているようでそうではない。ツイッターの表示形式はタイムラインと言って、自分のツイートやフォローしている人のツイートが次々と流れては下の方に消えて行ってしまう。その度合いはフォローしている人数にもよるが、わずかの時間のうちに100個以上のツイートが並ぶのも珍しくない。そうなると追いかけて読んで行くだけでも大変だ。その場で「いいね!」も出来ない。
ツイッターを始めた頃は、せいぜい仲間内の手軽な通信手段くらいだったが、最近は違って来ている。
世間では今、原発再稼動問題が一番熱い。ツイッターでも様々な意見が飛び交っているが、そこには再稼動推進派と慎重派を含む反対派が連日議論を展開している。中にはマスコミが報道して来ない事実も含まれているので、公正な判断材料の一つとして貴重な場合も多いので興味は尽きない。
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そんな事もあって現在私は150人近い人をフォローしているのだが、最近、ある事に気がついた。
私は原発再稼動には反対である。そのためフォローしているのは反対派の人が多いのだが、そこに引用されて来る推進派の意見もいろいろな意味で興味深い。ほとんどがいわゆる原子力村から大なり小なりの利権を得ているんじゃないかと思わせる御用学者や文化人、ジャーナリストなのだが、その理屈が常識的に「?」と思わされる事が多いのである。冷静な研究者であるはずの人が感情的に煽っているような意見も散見される始末。
なので、そんな推進派のトンデモ意見vs反対派からの論破などが面白くて、推進派の人へのフォローも増えて行ったワケである。・・・トンデモ意見による自虐的(ドM)な気分も楽しみたかったのもあったけど。
ある日、あまりに偏向に過ぎると思われる意見に反論の返信したところ、その何人かの人のツイートが表示されなくなった。何だかおかしいなと思っていたら、その人たちが私のフォローリストからも消えていた事に気付いた。つまり、私は相手から一方的にブロックされたというワケだ。
これは私に限らず、数多くのフォロワーを有している反対派の人も食らっているようだ。要は、自分の意見を批判する輩はシャットアウトしてしまおうという、哀しくも可笑しいヒステリーの表れなのだろう。
まあ、どーでもいいけど、私なぞのチンケなフォロワーにいちいち目くじら立てずに、せめてもうちょっと私の自虐ゲームにお付き合いしていただいてもいいじゃないの、ここじゃアンタらの方がメジャーな存在なんでしょうから。
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もう一つの話題は、橋下大阪市長とMBSの斉加という女性記者(兼ディレクター?)とのぶら下がり取材のやりとりである。
その大もとは、教育委員会が全教員に職務命令として出した「国歌の起立・斉唱」。そのマネジメント業務の遂行として、大阪府立和泉高校の中原徹校長は卒業式において教諭の君が代斉唱の有無を口元を見てチェックした。これがやり過ぎではないかという議論である。
これを報道で知った時には、校長=管理者=教育委員会側という図式が私もすぐさま浮かび、コイツは(コイツも)トンデモ校長、やり過ぎ校長なんだというイメージを抱いた。その後ネットなどを通じて、それが恣意的な報道による恐るべき誤解だという事が明らかになったのだった。
中原校長は、全教員に予め職務命令を伝えた上で、それでも口を動かしていない(ように見えた)教員3名に対して、式の雰囲気を壊さないようにと式が終わった後に別室へ呼び出し、それをただした。歌っていたと答えた教員にはそれ以上の追求はせず、歌っていなかったと認めた1名だけを教育委員会へ報告したというのが報道されなかった事実である。
彼のブログ「最年少校長 中原徹のブログ」にもそこに至る考えが記されている。
【読売新聞の記事について】
【国歌斉唱問題から学ぶこと】
これを読んでも明らかだが、中原校長の深謀遠慮の上に行なった行為は、やり過ぎどころか立派なマネジメントであるというのが橋下市長も認めるところである。
ぶら下がり取材の様子を公開したYou Tubeでは、斉加記者はニュース特番のための取材として意見を訊くという形を取りながら、あわよくば橋下市長の過激な発言を引き出そうとしていた。今回の事例を憲法の保証する思想信条の自由と対比させ、その独断的な考え方を批判しようという意図がミエミエだった。
挙句、今回の職務命令は誰から誰に向けて出されたものかの橋下市長からの逆ツッコミを受けて答えに窮したり、そもそも橋下市長側は府条例を作っただけで、その遂行には教育委員会に権限がある事などの基礎的な事実認識も持たないまま、言ってみれば彼女自身のイデオロギーによるウラの意図があったという事が満天下に知られるところとなった。
斉加記者が最後に発した「今日はこれくらいにしておきます」の捨てゼリフは明かに負け犬の遠吠え。吉本新喜劇の池乃めだかじゃあるまいし。
これもネットによる情報公開がもたらした功績と言えよう。
ところがここにもトンデモ意見が飛び交うのだった。曰く「歌わない事も個人の自由だ」だの「上司に従って歌う先生、歌わない先生、それを調整する先生という多様性が大事だ」「君が代斉唱を子供に強要するべきではない」などなど・・・。
これに対して橋下市長は憤る。「条例はそもそも個人の權利や自由を侵害するものではない。職務命令も公務員の教員に向けて出されたもので、私学の教員には出されていない。もちろん生徒にも強要するものではない。公務員として職務命令に従うのは当然の義務である」
私もツイッター上で交わされるトンデモ意見に見るに見兼ねて異論を唱えたが、ここでもブロックされた。中には「オレはニートだ。ニートなめんじゃねぇ!」といった脅迫まがいの捨てゼリフを吐かれた事もあった。もちろんツイッター上の文字として。ニートと知らずにマジレスした私が愚かだったんだろうけど。
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四十九日はとっくに過ぎ、むしろ百か日に近くなった昨日、近親者20人が集まって親父の納骨が行われた。
親父の遺骨をできるだけ家に置いておきたいというお袋の気持ちを尊重し、我々は納骨の日にちにはこだわらなかったが、それでいいと思っている。
この日を境に親父は、子供の頃に亡くなった大好きな母親の遺骨と共に眠る事ができた。それを思えば、それはそれで親父には幸せの始まりなのかもしれない。
この上もなく爽やかな上天気だった。
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