この日を忘れない
稀少な疾患ゆえ医師からの病理解剖の申し出に今後の治療解明のためと応え、たっぷり4時間以上を掛かけてそれが終了した後、家に帰りたがった父のために一旦自宅へと搬送してもらった。その際、手際よく待機していた葬儀社スタッフのビジネスライクな営業口調には、そのままそこに葬儀を依頼する気は起きなかった。
タテマエや形式よりも気持ちを重んじていた故人の遺志により、葬儀は家族葬のような近親者のみの集いにしようと決め、声をお掛けする人のリストアップを母に依頼した。母も最初は少人数の葬儀をイメージしていたはずが、実際に数えてみると総勢30名ほどに膨れ上がっていたのだった。
考えてみれば無理もない。付き合いのある最小限の親戚だけでも10数名を数え、どうしても外せない父と母の友人関係でも同じ位の人数になったのだから。
それでも絞りに絞って、相手にも人数を増やさぬようお願いしながら電話連絡を開始。同時に地元の小規模な葬儀社と打ち合わせ。幸い、翌日の土曜、日曜で通夜・告別式が可能との事だが、何せ翌日という事で作業がさらに慌ただしくなった。主催者側にはゆっくり感傷に浸っている余裕などないのだと実感。
・・・・・・・
通夜の始まる2時間前に早々と来たのは父の高校時代の友人達。何かとせっかちだった父と夫婦単位で数十年間も付き合って来たとあって、たぶん1時間前くらいから押し寄せるだろうなと覚悟はしていたが、その予測はあっさり覆された。
真っ先に現れたのは友人の一人で現職僧侶のIさん夫妻。実は、抹香臭い葬儀も嫌いだった父のために僧侶を呼ぶ事をせず、焼香の代わりに献花で執り行う事を決めていた葬儀社もこれにはビックリしたようで、慌てて焼香台を設える騒ぎに。
本人は通夜までいられない用事があるらしく、何食わぬ顔で焼香、読経を始める。しかも今は納棺師による化粧などが行われている最中で、その手を一時停めさせての荒業だった。他の友人達も釣られて焼香、揚句に遺族の方々もどうぞと仕切り始める始末。おいおい、通夜はまだだっての! まあ、これが長年の親友ならではの流儀なんだろう。
納棺業者から遺体に着せる装束や持たせる小道具あれこれを打診され、どうするものか迷っていると、すかさずIさんが「シンプルでいい。そんな装束は江戸時代までだ!」と言い切るモンだから業者も唖然。何せ僧侶が言うんだから二の句も告げなかった。結局、靴下好きだった父に足袋を履かせるだけにした。
今まで数々の葬儀に参列して来たが、当事者というのは傍から見ているよりも大変で、友人という立場で駆けつけるのが感情に一番浸れるのだと知った。
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結局通夜は、父の高校、大学時代の友人達の数の読み違いにより20名以上も増えてしまったが、賑やか好きだった父はむしろ喜んでいただろう。一刻も早く退院して会いたかったのはこの人達に違いなかったのだから。
通夜が終わって弔問客を送り出した後、私と長男は葬儀場に残って泊まる事にした。
午後8時過ぎから午前2時頃まで、父の前に座布団を敷き、サシで酒を酌み交わしながらとつとつと話す。こんなにゆっくり二人で酒を飲みながら話をしたのは初めてなんじゃないかとその時気づいた。
河島英五「野風僧」の「お前が二十歳になったら、酒場で二人で飲みたいものだ」を楽しみにしていたものの、息子の勤務地などの関係もあったが、それが叶ったのは実に10年近く経ってしまった後だった。
これも父の導きだったのだろうか。
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若干寝不足の朝を迎え、午前中の告別式。この日は当初の読み通りの人数で一安心。
献花、弔電披露と進んで、いよいよ喪主である母の代理として弔問客へ会葬御礼。ここで前夜に考えたネタを披露。
「・・・生前、戒名など不要と言っていた父でしたが、そうは言ってもあの世で認識されないのも困るかなと思い、勝手に戒名を考えてみました。
生涯薬の道を歩んだという事で「薬道院」、山登りが好きで世話焼きと言われるくらい人が好きだったので、名前の一字を使って「敬天愛人」ならぬ「敬岳愛仁信士」と名付けました」
これには皆さんから良い戒名だと誉めていただけたのだが、その後がいけなかった。
「・・・齢80歳近くまで生きた父でしたので、残された家族もいっぱしの大人ばかりです。今後のご心配はあるでしょうが、どうぞご安心ください。
家族全員で亡き(父に代わりまして)母を支えていきたいと思います」
見事、( )を言い飛ばしたのだった。
妹が噴き出したのを皮切りに場内が笑いに包まれた。よりにもよって告別式の御礼の場で笑いを取ったのは史上初めての事だったかもしれない。
ま、下書きもなく喋らされたのだからしょうがないか。
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寒い日だったが、雲一つない晴天の日でもあった。
こうして父は見送られ、骨壺に収められる身となって家へ戻って来た。私は決して唯物論者と言うわけではないが、少なくともこの2日間、母や妹のようなその場の感情に左右される事はなかった。
私は息子であり、失ったのが男親だったというからかもしれない。思うべきはこれまでの父との関わりであり、大事な事はそれを折に触れて思い返す事だと思っている。
忘れないというのが故人への最高の供養だと信じている。
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