息子の一番長い日
昼間は安定している親父の呼吸が夜になると苦しくなって来ると言う。実はここ2日間、ロクに眠れていないとも。
そうは言っても、主治医の来る翌朝まで待たないと処置は受けられないようなので、朝になったらまた状況報告してくれと言って取りあえず電話を切った。
そして今朝。6時半過ぎに電話が鳴り、さらに呼吸が苦しいとの本人の訴えにより昇圧薬と睡眠薬の投与がされると言う。
急変の状況とそれに対する処置の意味するところを理解した私は、家族を連れて一路病院へ。
病室では睡眠薬で鎮静を得ている親父が、酸素マスクの中で早めの呼吸をしていた。この時、SBP 110mmHg、HR 105、SPO2 95%と呼吸数が30後半という以外は安定しているように見えた。
少し安堵した我々は、談話室で食事を摂った。その時私は、万一を考え、二人の息子に言った。「お前たち、よく目に焼き付けておきなさい。人がどうやって死を迎えて行くのかを」
そして1時間。SBPが90mmHgを割ってきた。同時にSPO2も80%台へ。呼吸数も40前後。
さらに1時間が過ぎようとした頃、その時は突然訪れた。
SBPが80mmHgから70mmHgへ下がっていき、やがて60mmHg台へ。SPO2は70%を切っている。HRも50台、呼吸数は逆に20台へと滑らかに変化を示していった。それは確実に最後の時に向かっているという証しだった。
午前11時直前、その数値の全てが親父の生体反応の終焉を示した。
80歳目前にして、人生で初めて入院加療を受けた親父は、あらゆる検査や治療を受け入れつつ、肺炎による呼吸困難にも耐え抜いた末に、見事なフィナーレを迎えたのだった。
顔の半分を覆っていた酸素マスクが外され、実に久しぶりに見る素顔の親父に対面した時、思わず「Good Job! お疲れさまでした」とつぶやいていた。
・・・・・・・
自らが二代目として経営する東京下町の薬局の息子として私は生を受けた。
高校生の頃、確たる自信もないクセに将来は国語の先生兼小説家になりたいと言った私に、お袋は真っ向から反対し、親父は半ば諭すかのように私の志向とは真逆だった薬学の道を進ませた。
薬局を開設した祖父、それを継いだ親父、その息子と三代が同じ薬科大学を卒業しつつも、不肖の息子だけは薬局を継がなかった。親父もそこまではいいとばかりに、オレも世間並みに定年退職するんだと言って店を閉めた。
サラリーマンとなった私は、営業畑を中心に数社を渡り歩いて今の会社で研修トレーナーという職種に就く事になったが、それはすなわち、かつて私がなりたがっていた教師と同類の仕事に他ならなかったのである。
巡り巡って、ついに天職と言える仕事に辿り着けたというわけだ。
振り返ってみれば、薬科大学で非常に興味を惹かれた生化学という学問に出会えたのも、この業界にスムースに就職できたのも、望む転職を重ねつつ今の職種に遭遇できたのも、大なり小なり薬剤師の資格がモノを言っているのだと、今つくづく実感しているのである。
そしてそれは、何よりもこの道に進ませてくれた親父のおかげだと思っている。
私の親父に対する最大の感謝はこの一点に尽きる。
ゆっくり休んで今後の我々を見守っていてください。
ありがとうございました。
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