風になったマラソン職人
レース2日前の記者会見で、高橋尚子は右足3ヶ所の肉離れを発表した。この時、なぜ敢えてこんな発表をするのだろうと不思議に思っていた。たとえ故障があろうと、走りのプロなら相手を利する事になるものはひたすら隠すのがセオリーである。ましてワールドカップサッカーなどでよくあるデマを流して敵を撹乱するという意図は毛頭無かったはずだ。
後から聞けば、それは彼女の性格だったと言う。戦略でも言い訳でもなく、隠し続けるより言ってしまえば精神的にスッキリする。その代わり結果に対してはとことん執着し、一切の憂い無く全力で向かって行く。彼女の意地が見せた職人スピリットだったのだろう。
残り8kmをスパートして走り切る練習を重ねてきた彼女にとって、前半を慎重に抑えての35km過ぎは、故障再発さえ無ければ勝ちパターンである。2年前に失速した坂も「あれ? こんなもんだったの?」という間に登り切ったと言う。軽傷とは言えない右足は、レース中決して無痛ではなかったと思うが。
そして彼女は風になった。
晩秋の国立競技場の日差しを前面に受けてテープを切った姿は本当に美しかった。職人がその持てる技と精神の全てを注ぎ込む姿は美しい。