命の連鎖

去年、6年目を迎えた愛車BMW120iCoupeのリコールの通知を受け取るも、その文面に「準備が整いましたら再度ご連絡します」とあったので放置しておいたら、今月になって「お客様のリコール修理未実施が判明しましたのでご連絡ください」との通知が来た。

「おいおい、待ってろと言ったのはそっちじゃないか。まるで修理に出してないのはこっちのせいみたいな通知を寄越しやがって」と少しムッとしたのを抑えディーラーへ電話し、指定工場へ車を持って行ったのが月曜日。

で、本日金曜日は大嫌いな膀胱内視鏡フォロー検査の日だけど、車を受け取りがてら渋々病院へ。その際、走行時にもサイドブレーキランプが点灯したままだったが、予約時間があったのでそのまま病院駐車場へ向かった。そしてエンジンを切ると今度はリフトアップアラートが鳴るではないか。

痛みこそないものの、出す器官にモノを入れるという違和感に苛まれつつ検査を終えて再び工場へ。

担当者曰く、リコール修理のミスでブレーキ関係のデータが飛んだらしいと。もう一度プログラムを書き換えるので入院してくれと。

おいおい、おたくは修理後に動作点検しないのか?
そもそもこれは私からの修理依頼じゃなくリコールだよな?
そんなこんなで自宅と工場ともう2往復してるぞ。今度取りに行くと3往復だぞ?
もう一度言うが、これはユーザー都合ではなく会社都合のリコール修理だよな?
だったら交通費くらい出してもバチは当たらんだろっての!

おかげで内視鏡検査で異常なしという嬉しい結果も霞むくらいムッとした一日となってしまった。

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さて、膀胱がんを患ったからというワケでもなく、ことさら大上段に死生観なぞのたまう気はないものの、著名人の最近の訃報に触れるたびについつい自分の最期はどんな結末が待ち構えているのだろうと妄想してしまう。

今年に入ってからでも、渡瀬恒彦(72歳)、松方弘樹(74歳)、かまやつひろし(78歳)、与謝野馨(78歳)、佐田の山(79歳)、藤村俊二(82歳)、ペギー葉山(83歳)、船村徹(84歳)、三遊亭圓歌(88歳)、京唄子(89歳)、三浦朱門(91歳)、鈴木清順(93歳)という主だった著名人が逝った。

だが、それぞれの享年からすれば、多少の差はあれどもまあまあ天寿を全うしたと言えなくもない。

一説によると、昭和30年代以降生まれは平均寿命が60歳台にも縮まる可能性があるという。もしかしたら、90歳過ぎまで生きて大往生などと言われたのは昔話だとなる日も近いのかもしれない。

かねてからこのテーマについてカミさんともいろいろ話す事があるが、彼女は私よりも十分に年下ゆえ、確実に私の方が先に逝くと信じて疑わない。だが最近、「何言ってんのよ。美人薄命だから私の方が早いかもよ」などとうそぶくようになった。

はいはい、アンタが美人薄命だったら、世のほとんどの女性の寿命は60歳にも満たない事になるでしょ! 全女性の9割は還暦前に死ぬってか?

ま、それはともかくとして、どんな理由でどんな最期を迎え、そしてその瞬間はどんな感覚で幕が降りるのかは知る由もないが、こんな事をしみじみ考える瞬間があるのも、私を襲ったここ数年の既往歴が為せるワザなのかも。

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4月のとある日、珍しく長男からメールがあり電話して欲しいと言う。言われるままにコールバックしたら、なんと嫁さんがご懐妊と!

予定日は11月頃と言うから、あと半年くらいで私はジイさんの仲間入りをしてしまう事になる。我が家は代々25年周期で次世代が生まれて来た。親父が25歳の頃に私が生まれ、私がその頃に長男が生まれた。

その体で行けば、長男が25歳の頃に子供が生まれるはずだったが、彼の結婚自体がわずか2年前だったのだからアウト。それを持って我が家のジンクスは崩れ、それならいっそ子供が出来なかったら私がジジイになる日も来ないと密かにほくそ笑んでいたのだった。少年時代から何かと童顔で苦労した私が、ようやくこの歳になってアラ還には見えない若造りを謳歌させていただく番だし。何せ周りの同世代はもっと早くから孫が出来て、リッパなジジイババアと化していたからシメシメである。

それなのに期せずしてご懐妊の報が来たので、慌てた半面、改めて命の連鎖についても実感を伴って考えさせられたというワケである。こうやって命は脈々と受け継がれて行くのだろう。

・・・いまだ精神年齢は30代とも自負しているこの私がジジイか。いっそ、うれしはずかし朝帰りでもしてやろうか。

これで少なくとも秋までは死ねなくなったのは確かではあるが。(^_^;)





そして外壁塗り直しの時が来た

ある日、ふと気が付いたら我が家を建てて14年が過ぎようとしていた。

近代的な洒落たマンションにせよ、10年も経てば何らかの外壁修繕工事などを行なうという。それが安普請の戸建てともなればなおのこと。

そう言えば、三軒長屋のように同時に建った両隣りの家の壁には、屋上テラスから覗くと縦横大小の亀裂が走っているのが見て取れた。という事は、見えていないだけで我が家の外壁にもそれなりの亀裂が生じていると考えるのが自然である。

そう自覚したのが去年の暮れの頃だった。

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早速、町内会の夜回りで一緒になったお隣さんのOさんへ話を持ちかけてみた。いっその事、三軒同時にやったら費用も効率的になるのではなかろうかと。

少なくとも足場などを共有できるだろうからシナジー効果はあるだろうとの事で、Oさんから外壁塗装会社をあたってみるとの回答だった。ではそれをたたき台に相見積もりを取って決めましょうという事になった。

善は急げとばかりに、もう一つのお隣さんのEさんへもこの話をして、取り敢えず内諾を受けた。

これで、待てば海路の日和ありと相成ったワケである。

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ところが、正月が過ぎ、2月に入ってもOさんから何のレスポンスもない。春には着工したいと考えていた私は、こちらでもたたき台の見積もりを取ってみようと、ネット経由で紹介された工務店さんにその話をし、見積もりを取った。

見積もりを見ると、一番大きな価格の差が出るのは外壁塗装に使う塗料のランクだった。トップランクは光触媒フッ素チタンコートで、メーカー曰く30年持つという。でも発売してまだ数年なんだから、本当に30年持つかは誰も見ていないだろうに σ(^_^;)

で、その工務店の提案は、12〜15年持つというセカンドランクの塗料を使う案だった。チタンコートはかなり高いし、我が家の仕立て(モルタル)ではオーバースペックになりかねないとの事。それでも屋根と屋上の防水修繕も含めた総額は国産小型車が買える価格になった。

ともあれ、これでたたき台が一つ出来た。

そうこうするうちにもう一社がOさん宅を訪れ、例の光触媒フッ素チタンコートを何と40%引きのキャンペーン価格でどうかという営業があったらしい。ただ、営業マンが話した相手が外壁工事にイマイチ消極的な奥さんの方だったので、奥さんから逆にウチが紹介され、話が舞い込んで来た形となった。

取り敢えず2つ目のたたき台にはうってつけだったので、見積もりを取ったら、さすがに40%引きの威力は大きく、先日の一社目の見積りの僅か10万円高で出来るという。

この2つの見積もりのコピーを両隣りに渡した時、Oさんはなぜか6月まで大忙しと言い、Eさんは内装のリフォームをしたばかりで余裕なしと両隣りとも様子見の構えとなってしまっていた。

ならば今回は我が家の単独施工で行こうという事になった。シナジー効果が見込まれた足場の共有は、実は数万円しか違わない事も判明していたし、両隣りとの間隔が1m弱という狭小区画ゆえ、塗装を順繰りにやらなければならないから逆に工期がかさむ不安もあった。

紆余曲折の末、本当に30年持つかは知らないが、うまくすれば死ぬまで外壁塗り直しの心配がなくなるのなら、そして10万円の差だったのなら、思い切ってフッ素チタンコートにしてみようかとカミさんが決断した。私も同意。

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そして先月下旬、屋上テラス一面の朽ちたスノコや鉢の片付けは経費節減のために営業マンが頑張ってやってくれた。

今月に入って5日、植木屋さんが来て玄関横の金木犀の剪定をした。植えた時は1mにも満たない木だったのに、10数年の間に2階に届くまで伸びていた。せいぜい殺さない程度にバッサリやって下さいとお願いしたらさすがプロ、スマートに可愛らしく剪定してくれた。

続いて7日、足場屋さんが来て、朝から丸一日掛けて足場をセッティング。これが単独の一軒家なら数時間で終わるのだろうが、何せ隣りとの距離1m弱なので機材の出し入れひとつ取ってもなかなか大変だったようだ。

そして今日、外壁全体が高圧洗浄された。すっかり綺麗になったらしいのだが、私が帰宅したのは既に夜だったので、暗くて良く分からない。

ともあれ、明日からはいよいよ5層にわたる塗装のスタートとなるだろう。

一つ困った事に、約3週間の工事期間中はコインパーキングなどへ車を移動しておかなくてはならない。おあつらえ向きのコインパがすぐ近くにあり、しかも24時間で1800円とリーズナブルな価格設定だったのは嬉しいのだが、実はその近くでも建設工事が行われているので、朝から晩まで関係車両が占拠する。そのため一度停めたら清算、移動、再駐車を夜毎に繰り返さないとスペースが確保できないのである。これが結構面倒。

まあ、それでも外壁の色も3階のバルコニーの色も変えてみたので、我が家が新しい顔になるのが楽しみでもある。






ついにこの日が

結婚式当日、花婿の父には3つの仕事があるという。結婚式前の両家控え室における親族紹介、披露宴における主賓を始めとする来賓への挨拶回り、そして披露宴最後の両家代表挨拶である。言われてみればその通りなのだが、前日に至るまで代表挨拶の内容ばかり考え、宴の最後にキメさえすればいいんだと思っていたのだから情けない。

今まで幾多の結婚式・披露宴を見て来たつもりだったが、当事者の親の側に立たされると、こうも景色が違うものかと驚かされた。式場選や披露宴の内容などほとんどすべてを息子たちがプロデュース、親側は直前になってもその詳細はよくわからない状況だった。3つの仕事についても前日になって息子からの依頼メールで改めて認識したほどだった。

そんな混沌の中で当日の朝を迎えた。東京人でもほとんど知らないようなレアな都内名所見物を企てていた義弟夫婦は、何と2日も前から鹿児島から上京して私の家と会場であるランドマークタワーのホテルと連泊、私の母親と妹も同じホテルに前泊してその日に備えていた。

私はと言えば、昼に会津から帰って来た二男を車に乗せ、夕刻に仕事を終えたカミさんをピックアップしてトリプルベッド設定があった、会場とは別の横浜スタジアム近くのホテルへ前泊したのだった。そこは中華街の近く、もちろんあの「東林」でワタリ蟹の卵炒めやピーナツ餡のゴマ団子などの名物を食したのは言うまでもない。横浜でこれは外せないでしょ。

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前日の雨模様もスッキリ上がり、文字取り「本日は良いお日柄」という朝を迎えた。おまけに前日は大安だったのでホテル内はかなりごった返していたと聞いたが、打って変わってこの日は日曜日にも関わらず昼の部も2組程度で余裕のよっちゃん。こりゃヒキは強いぞ!

着慣れないどころか初めて着るモーニングにあたふたし、「これぞペンギン!」という妹の罵声に耐えつつ式は始まった。まずは控え室における親族紹介。両家合わせても30名弱という少人数だったので単に続柄と名前の紹介ではアッサリし過ぎているかなと思ったが、結局、余計なプロフィールを加える余裕はなかった。事前に確認はしておいたものの、自分ではなく息子との関係を相手にわかりやすく伝えるのは意外に難しい。間違えたりもしたし。

式はチャペル。でもここは地階。施設の都合からか、陽の差す明るい地上のチャペルではないし、両家とも別にクリスチャンでも何でもないのだが、そんな事は二人にゃ一切関係ない。どこかで観た映画のようにウェディングドレスでヴァージンロードを歩く事にこそ価値があるのだ。場内に響き渡るバイオリンとビオラの演奏やソロの賛美歌は、生であるゆえ一種神々しい存在感を生む。アルバイト牧師の手馴れたリードでつつがなく式が進み、神の御名の下に無事結ばれたようだ。

それにしても写真屋はそんなにたくさん撮ってど~すんのというくらい、ロビーの大型階段で二人にあれやこれやポーズを要求しては撮りまくるし、動画屋に至ってはその合間に両家の父母にあれこれとインタビューしては録画する。これが最近のスタイルなのだろうが、恥ずかしいやらウザいやら。今さら息子に言う事なんてそんなにありゃせんわい。

最近のスタイルと言えば、披露宴は息子のスピーチから始まり、主賓の挨拶と乾杯の後は新婦のピアノ演奏くらいが余興で、友人のスピーチや余興などは一切ない。その代わりひな壇での新郎新婦を囲んで語らったりスナップ撮影などの時間がタップリと取られていた。従来の披露宴風景に慣れているこちらとしては賑やかさが足りない感じがして、こんな事ならいっそギター抱えて飛び入りライブでもやったろうかとも思ったが、いやいや新郎の父親がそれやったらシャレにもならんわと思い留まった。

そんなまったりとした時間が多かったので、両家の主賓どころか友人席や親族席に至るまで全テーブルに挨拶回りをした。本当はそこまでしなくてもいいだろうとカミさんとも言っていたのだが、気が付けば向こうの両親がいそいそと回っていたのだからしょうがない。

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いよいよお涙頂戴タイムがやって来た。まずは新婦の母への手紙の朗読、そして二人からそれぞれの母親へ花束贈呈となった。息子を思わず抱き寄せて涙に暮れるカミさんの気持ちが伝わって少しグッと来る。それがいけなかったのか、新郎の父親だというのに両家代表挨拶を喋りながら一瞬ウルウルしそうになったり、密かに仕込んださらなるお涙頂戴ネタを見事に外し、逆にマイクを渡したカミさんのスピーチの方が私よりも笑いと絶賛を浴びるという結果となってしまった。

ここに至って私は否応なく自覚させられた。かれこれ15年に渡り研修をやって来た私は、自分でも周りからも他人よりは話が上手いと思っていたのだが、それは全くの勘違いだったのである。私は研修シナリオに基づいて効果的に受講者へ教えるスキルはあったのかもしれないが、決して話そのものが上手い訳ではかったのだ。事実、台本を必死に覚えて噛む事もなく喋り切った息子や素直な気持ちを笑いと共に語ったカミさんの方が大向こうを唸らせた。あー自己嫌悪。

ともあれ、こうして息子は嫁を貰って新しい家庭を作り、それをスタートさせてゆく。ふと息子の幼い頃の日々を回想すると、いつの間にか立派な大人になった事にさえ感慨を覚える。そして願わくば二人の歴史に長く足跡を残して行って欲しいとも。ついこの前まで自分たちの手の中にいたはずだった子供の巣立ちとは、こういうふうに突然やって来て、突然思い知らされるものなのだろうな。

今頃、新婦の父親の胸に去来しているであろう言い知れぬ寂しさを味わわないで済むだけでも、新郎の父親という立場はまだ幸せなのかもしれない。

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一夜明け、来月から就業する会社へ入社手続きに赴く。名札や社章、書類やマニュアル、おまけに白衣までごっそり受取り、その足で1ヶ月間のOJTを受ける指導薬剤師の先生の店舗へ挨拶に。話を聞くと、この先生独特のキャラに加え、仕事への取り組み方や考え方がかなりユニークで信念を伴っている事に気付いた。それが販売会社としてしっかり実績にも結びついていると言う。

よ~し、これも縁だ! 私は来月からこの先生にしっかり密着し、この先生からあらゆるものを吸収したいと思う。

私がこの仕事選んだ最大の理由である、メーカーの人間では出来なかったエンドユーザーである患者さんへ直接関わり、そのお役に立ちたいという事を実現させるためにこれは絶好の環境と言えるだろう。ここでも私のヒキは強そうだ。





どうにも立ち位置が・・・汗

こんな日がいつかはやって来るのを想像はしていた。だが、実際にやって来るとなると自分の立ち位置がどうにも定まらず、何とも座りの悪い思いを感じてしまう。

昨日の昼、長男の結婚相手となるお嬢さんの両親に先方の地元である横浜で初対面した。例によってカミさんの温泉行きたい病が発症したため、スーツ一式を持って前日から箱根強羅温泉に泊まり、そこから現地へと向かったのである。

息子は私が25歳の頃の生まれなので、30過ぎの息子の父親としては若い方である。一方、相手は息子とほぼ同い年であるゆえ、普通に考えれば相手の両親は私よりも年上である。案の定、ご主人は3歳上で、奥様が同年代だった。ご多分に漏れず、先方も家庭の実質は奥様が仕切っている感じ。ならばこまごまとした話は女同士に任せておけばよい。

私は何事も略式派なので、改めて結納式なんてどうでももいいと思っていたが、長男長女なので簡単でもいいからした方がいいでしょうと、これに関して主導権がある先方の奥様が言うので、そうする事にした。まあそれはいいとして、彼女が今後の打ち合わせなどで息子のいる福島を訪ねた時、宿泊させてもいいかと奥様がお伺いを立てるので、そんな事はこちらが許可する云々の話じゃないし、大人同士なんだから本人たちが判断すればいいでしょと思わず言ってしまった。そもそもこんな事、女性側から出す話じゃないし。笑

本人達からの経過報告では、先日まで予約を入れていたヨット型ホテルからランドマークのホテルに替えた事と、花嫁が着るドレスのクオリティが見事に値段に比例していて、何度試着しても迷い中との話があった。どーやら花嫁さん、母親に似ず決断にややタイムラグがあるタイプかも。お色直しまでのわずかな時間に着たドレスなんて、どーせ誰も覚えちゃいませんからたいして変らんよ、と言いそうになったけどこれは飲み込んだ。笑

ともあれ、結納を兼ねた食事会は来年1月、挙式は6月という事に落着した。先方は彼女の妹の結婚式が今年の11月に控えているのでこの1年は本当に大変だろう。

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四苦八苦しながらでもめでたい話が進んでいる家族もあれば、20日に発生した広島市の豪雨土砂災害で、72人もの犠牲者の中に東京から地元に引っ越したばかりの新婚夫婦が犠牲になったという話が一層悲しさを増す。新婦のお腹の中には7ヶ月の命も宿っていた。

被災地は山の斜面を這い上がるようにして開発された新興住宅地だった。被害写真を見る限り、素人目にも土砂崩れや水害の起こりそうな地形だというのがわかる。決して被災者を責めるつもりはないが、平地が少ないという住宅事情があったにせよ、ここに家を建てたり借りたりして住む事に疑問の一つも抱かなかったのだろうか。

一方には、この地区に長年住んでいても土砂災害など起こっていないという声もあったそうだが、過去に災害のあった事を示す古い地名の存在も含めて、今の時代であればなおさら十分な情報収集をしてから判断すべきではなかったのだろうか。事実、地元の建築関係者は危険地区の情報は知っていたという。家は一生の買い物と言うではないか、一般人だって出来ない事じゃないだろう。

かつて私の実家のあったある住宅地のはずれには、昔、ゴミ処理場として生ゴミを埋めた区域があり、そこがテニスコートを経てやがて新しい住宅地として建売住宅が建ち並んだ。しかしその住宅を購入した人達で、近辺の先住者にその土地について訊いた人は誰一人いなかったそうだ。訊かれれば教えてあげたのにと父母も言っていたが、果たして現在、その地盤は見事に沈下しているそうな。

このような災害が起こるたびに、もしかしたら未然に回避できた道があったのではと思えるだけに残念でならない。




ご褒美温泉ドライブツアー

3月度の全国研修ツアーを無事に終え、ご褒美とオーバーホールを兼ね、昨日休暇を取ってカミさんと温泉へ。今回は、静岡県の梅ヶ島温泉という、安倍川餅で有名な安倍川を30km以上遡った所にある、まさに秘湯とも言うべき温泉である。

例年よりかなり早咲きの桜は東京ではすでに満開を過ぎ、後は散るのみという段階だが、ここ静岡ではまだ大丈夫と踏んで日本平や駿府城公園などを巡ろうと画策した。

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CB1などのオフ会ではあり得ない遅出の8時に出発、首都高から東名高速を順調にクルージング。桜並木の路線では、路面に散った桜の花びらを舞いあげながら疾走すれば、目にも鮮やかな春の景色に心も踊るというものである。

前日に予約の取れなかった日本平ホテルのランチブッフェにオープンと同時に滑り込み、庭から見えた三保の松原へ寄り道し、やがて安倍川の橋を何度も渡りながら宿を目指す。

この道、空いてはいるものの、片側通行も当たり前のうえに対向車も結構やって来るから気が抜けない。ドライブ好きでなければ相当くたびれるルートである。あー、私ゃドライブ好きで良かった。これで三半規管が弱いと自称するカミさんを乗せてなければもっとアグレッシブに行けたんだけどね。

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それでも早めの時間に宿に着き、客評価の高い風・林・火・山の4つの貸切天然温泉風呂を制覇すべく、さっそく風湯から突入。

この温泉は単純硫黄泉で、お湯が肌にまとわりつく感じで絡みつき、すぐにスベスベになって来る。これと同じようなお湯の感触は、大のお気に入りの鹿児島・日当山温泉と同クラスで、関東近県では珍しいかも? でもこれが実にいい。鹿児島へはなかなか行けないが、ここならはるばる走って来る価値がある。

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夕食は軍鶏鍋&締めラーメンをメインとして刺身やグラタンなどが居並ぶ全13品の会席仕立て。それに安倍山葵を擦っては添えて食べる。まさに味とボリュームが見事に両立した大満足のレパートリーだった。さすがの私も最後のご飯まで行き着かず、夜食用のオニギリにしてもらったくらいである。

で、当然ビールも酒も無し。みかん酒を飲んだカミさんを横目に、何とジンジャエールとミネラルウォーターで乗り切ったのだった。だが不思議と辛くはなく、欲求不満を感じる事もなかった。これで私は意志の力で禁酒ができ、ましてやアル中ではない事が証明された。ふふふのふ

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結局、お風呂は風湯、火湯、山湯の3つに入る事が出来た。入れなかった林湯は昨日入った風湯とほぼ同じなのでまあいいか。

さて本日は、このまま安倍川を遡って走った山梨県の何処かに辿り着くというのでチャレンジしようかと思ったが、途中の道が冬季通行止めの解除がまだという事で断念。結局、40km以上先にある静岡市中心部の駿府城の桜を目指し、来た道を駆け下ったのだった。帰りはほぼ下りばかりなので、よりラリー気分満点だった。これでカミさんを乗せてなけりゃ・・・。

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東京は寒かったらしいが、静岡市内はポカポカの良い日和。なのでついつい頻繁に水分補給をする。そうするとトイレが近くなる。飲めばそれだけ出るのは当然だが、ここのところ、どうにもその間隔が短くなって来ている。

このまま暑い季節になると、これがさらに短くなるとしたら問題である。と言って前立腺肥大症でも過活動膀胱というワケでもない。排尿量や尿勢も変わりはない。単に摂取した水分量をそれだけ排泄するという話、ただその間隔が短いのが気になるだけ。

これも歳のせいってか?





一周忌

立春など名ばかり、その先まだまだ寒さが続くのは毎年の事で今さら驚くべきものではないが、この一年の速さには改めて驚かされた。昨日は親父の一周忌法要。バイタルサインの低下と共に静かに息を引き取ったあの日からちょうど一年、とてもとてもそれだけの月日が経ったとは思えない。

この日の朝は、ごく内輪だけで墓前にてお経を上げてもらっただけの簡単な法要を済ませた。偲ぶ会と名付けられた食事会は、親族や親父の友人など30数名に足を運んでいただいて、デパートの貸し切り個室で開催された。

例によって、母に代わって私が挨拶&司会進行を行ない、大学山岳部の先輩、高校時代の同級生の方達の挨拶と献杯、その後は2時間以上に渡って歓談という、堅苦しい事が嫌いだった親父の意向に沿ったフランクな感じの会となったのは何よりだった。

普段はさほどのお付き合いもしていない者同士が、故人との関係の名の下に時間と場所を超越して集まり、個人との関係を話のネタに過去と今を語り合う。ま、これも冠婚葬祭の目指すところなのかもしれない。

思えば、親父から私、私から息子と25年周期で子供が生まれた我が家だった。という事は、私の年齢の時に親父にはすでに5歳になる息子が孫として存在していたのだ。残念ながら25年周期は、前日の8日に30歳となった息子で途絶えている。

まあ、そのおかげで私は「OYAJI」ではあるけれど「JIJII」にはならずに済んでいるというワケだが、果たして親父の55歳はどんな感じだったのだろうか。単に年齢が同じというくらいでは、私にはとても計り知れない。

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昨年12月5日の中村勘三郎に続き、今月3日には市川團十郎が亡くなった。白血病の持病があったにせよ、66歳というのはこれまたあまりに若い。この春予定されている新歌舞伎座のこけら落としを待たずして、歌舞伎界は大看板を立て続けに失った。

中学時代の歌舞伎教室以来、これまでまともに歌舞伎を鑑賞する事などなかったが、ふとNHKの團十郎追悼舞台放送を観ている。演目は勧進帳、これくらいなら有名だし分かりやすいので抵抗感を持たずに見続けられた。しかし弁慶役の團十郎、一度登場したと思ったら、延々一時間以上も出ずっぱりで、最後に花道で見事な大見得を切るのには圧倒される。。すかさず大向こうから「成田屋!」の声が飛ぶ。

素人目に見ても、これはまぎれもなく名演であり、團十郎のカッコ良さがひしひしと伝わってくる。こんな事なら、両名が生きているうちに生舞台を見ておくべきだったなと、これまた素人の浅はかさ。

数え80で逝った親父はまだ長生きだったと言えるのかもしれない。





実家の移転が決まった日

私が生まれた所は東京下町新小岩のアーケード街にある住居兼店舗で、そこで約四半世紀の時を過ごした。

店は祖父の代から続いている薬局だったが土地は借地だった。昔の商店街は近所づきあいも盛んで、近所の同年代の子供同士でもよく遊んだものだった。今見たら相当狭いアーケード街の路上で三角ベースボールやら足こぎカーレースやらをやっていたのは、今だに信じられない事だったと思っている。

私が越境入学で千葉県市川市の小学校へ通っていたある日、ふと見た家の庭を指差して「芝生のある家に住みたい」と親父にのたまったそうな。ヘタすると一日中陽射しを浴びない事もあるアーケード街での暮らしに疑問を持っていた親父は、松戸市郊外の新興住宅地の一角に広い庭付きの家を建てた。私が小学校5年生の頃だった。

もともと週末を過ごすのが目的の家だったから交通の便などは二の次、カッコ良くいえば近場の別荘的な存在だったのかもしれない。普段の飲み物は牛乳くらいしか許されなかった我が家だが、そこに行けばビン入りのコーラやファンタやサイダーが置いてあったので、子供心にも喜々として通ったものだった。

やがてアーケード街の店は、地主の世代交代によって底地権を買ったものの、時代はヒグチなどのドラッグストアが幅を利かせて来た頃だった。個人経営の小売薬局の限界を予知した親父はそこを売却し、相談専門薬局へと進化を図るべく千葉県の新松戸という所へ住居兼店舗を構えた。この家が松戸市初の木造3階建てだったという事もあって、なかなか認可が下りなかったというのも懐かしいエピソードだ。

「オレは小学生の頃から店番をしていたから、とっくに定年でいいんだ」と言って、店を閉め売却して例の庭付きの家へ引っ込んだのは、不肖の息子が店を継がない事が確定的になった頃だった。

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そんな親父が今年の2月に亡くなり、家には母親と妹の二人が残された。それはそれで自然の流れである。

ところがこの家、新小岩時代の知り合いの大工さんに頼んで建てた、漆喰の壁やセントラルヒーティングといった当時としてはかなり気合の入った家だったものの、いかんせん築40数年のシロモノだ。床の沈みの補修も追いつかない上に初夏に到来した台風によって屋根の一部が飛ばされるという事態に至り、ついに母親は駅近のマンションへの転居を決意したのだった。

新小岩時代から新松戸時代とその折々に別邸として、あるいは移動の中継場所としての役割を果たして来たこの家が姿を消すのは何とも偲びない思いも湧くが、これも時の流れである。形あるもの、いつかは土に還るというものだろう。

バブルの恩恵などとっくに飛び去ったこの土地の評価は決して高いものではなかった。ただ高台角地の100坪近い面積だった事が地元デベロッパーの目に留まり、建売住宅用地として購入したいというオファーがあった。提示価格も概ね相場基準を踏襲していた。

ならばお次は駅近マンションの購入である。幸い、比較的近い所に適当な物件が出た。築年数も浅く、オーナーが女性という事もあり、母親も気に入ったようだった。

そこから両売買を担当する大手住宅会社の営業マンとの話し合いが始まり、私も同席した。数回の折衝を重ね、昨日ようやくこちらの条件が盛り込まれた契約に至った。メデタシメデタシ。

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と、ホッとしている間もなく、我々は別の問題に直面する事になる。

現在住んでいる家は総床面積150平米超の広い家、引っ越すマンションはその半分程度の広さ。という事は、マンションの収納も考えると、今の家にあるもの全てのおよそ70%は処分しなくてはならない計算になる。それを1ヶ月ちょっとのうちに済ませなければならないという時間との勝負が発生したのである。

ただでさえモノを捨てられない母親が、家が広いのをいい事に溜め込んだ量はハンパではない。それを80歳目前の母親と仕事で家を空ける事の多い妹でやり切れるはずもない。男手は私とせいぜい二人の息子くらいだ。だが息子たちは地方住まい、もちろん私とてしょっちゅう全国を飛び回っている身なので、マトモに動けるのは休日くらいしかない。

かくして私の貴重な休日は、持って行くものと思い切って処分するものの仕分け作業にそのほとんどを費やす事になったのである。

年寄りの引越しは得てして気分的に大きく影響し、うつになる可能性も高い。だが、暮らしのダウンサイジングによる手軽さと駅近による行動力アップは少なからぬ喜びともなるという事を信じようと思っている。





お嬢さんたちがやって来た!

この日が来るのを彼女たちはきっと首を長くして待っていたに違いない。たぶん、親たちから夏休みの宿題を片付けるための鼻先ニンジンにされながら・・・。

そして今日の日が来たのだった。

今朝早く、ANAキッズらくのりサービスではるばる鹿児島の地から、義弟夫婦の小学生の姉妹は羽田空港に到着した。費用と時間の都合で親同伴ではないので、今回は我々が全面ホスト役で迎えに行ったが、空港駐車場は待ち時間1〜2時間の大混雑! 単なる平日なのに、これは予想外だった。

仕方がないので、カミさんを迎えに行かせ、私は循環道路で第一ターミナルと第二ターミナルを巡回すること30分、ようやく到着出口で3人を拾ってディズニーランドホテルへ。

荷物を預けて早速ランドへ出陣! まずはワールドバザールのお店に寄ってネコミミやミニーのカチューシャ、濡らして首に巻くクールタオル、汗拭き用のドナルドのフェイスタオルなどで装備を固めてシンデレラ城へ向かう。こりゃまるでドラクエである。

夏休みだがせめて一番混まないであろうゴトー日近辺を狙ったのは正解で、園内の人出はこの時期としては普通以下だった。その代わり本日は34℃の真夏の陽射しに晒された。暑い!

小学生という事で、あまりハードなアトラクションは求めなくていいので、とりあえずトゥーンタウンへ向かう。さすがにアトラクションは長蛇の列のところばかりだったが、それでも30分弱で乗れるというゴーコースターをチョイス。実はこれ、スケールこそ小さいもののTDLで一番スピードの出るアトラクションなのだ。それが本日の口開けというのもいささか刺激的だったが、お嬢さんたちは耐えた。代わりにカミさんが悲鳴を上げた。

ランチはミッキー型のピザをパクつき、続いてロジャーラビットのカートゥーンスピン。これは暗いところをクルマがクルクル回って行くだけなので何事もなく終了。

舞台をファンタジーランドへ移し、ここでお子さま定番のイッツ・ア・スモールワールド。このアトラクションは20人乗りの大型船なので回転が早く、わずか10分程度で乗れた。列に並びながら帰ってくる船を上から見ていたら、そのうちの一隻にイスラム系、プエルトリコ系、チャイニーズ、ジャパニーズが呉越同舟? だった。これこそリアル・スモールワールドじゃないの! その後、船に揺られるうちについ居眠りこいたのは何を隠そう私だった。これこそリアル・白河夜船!

アリスのティーパーティーでは無理矢理ハンドルを回してスピンの限界に挑戦したかったが、女三人のパワーの前にあえなくその手を塞がれた。そして少しハード系のアトラクションである白雪姫へ。ここも30分かからず順番が回って来た。

前の座席に並んで乗ったお嬢さん二人、ホラーチックな音と風景に妹が姉に身を寄せる。やっぱりチビには怖かったのかと後ろから見ていたのだが、終わって降りたら泣いていたのは何と姉の方だった! 訊けばガイコツがぶら下がっていたのが怖かったとの事。妹の方は終わればケロリとしていたのは下克上の前兆か?

夕方のパレードを見ながら、綺麗どころのダンサーをツイッター用に撮影し、すかさずサービスショットとしてアップ。ここでひとまずホテルへチェックイン。夕食はホテルのブッフェで摂り、その足で今度はエレクトリカル・パレード! 見慣れてしまえば毎度変わらぬ電飾の山車なのだが、これで本日の我々の営業は無事終了。

それにしても強い陽射しの中の半日行脚、大人でも相当くたびれた。そんな状態で家に帰るのではなく、目の前のホテルに帰ればいいというのがこんなに楽だったとは! こりゃお金にゃ代えられんわな。

さてさて、今日はランドで明日はシー。ああ、シーンドイ。






記念日、らしい。

春一番と呼ぶにはあまりに激しく、晴れから一転雲に覆われたと思いきや、まるで台風のような強風に豪雨。これはもはや春の嵐と言っていい昨日が終わり、今日は絵に描いたような晴天。

実はこの日は我が家の結婚記念日である。カミさんの誕生日が3月の終わりだったので、届け出の日をそれ以後の日で忘れにくい日にしようとエイプリルフールに決めた。また、日本では新たな旅立ちは4月とされているので、その意味でも妥当かなと。

それでも誕生日やら記念日やらがニガテな私、今日が何度目の結婚記念日かすら分からないでいた。それはカミさんも同じだが、改めて数えさせたら何と21年経っていた事が判明。あらら、区切りの20年はすでに去年だったのか!

それにしてもお互いよくここまで持ったな。

・・・・・・・

そう言えば息子の入寮手続きと送った荷物の受け取りのために、先週初めて大学に行ったカミさん。何よりそのキャンパスの広さに驚いたようで、早速メールで伝えて来た。予備校じゃあるまいし、大学たるもの都市部のビルじゃあまりに寂しい。それでこそ大学らしくていいじゃないかと返信した。

遠い昔、中学生の頃に初めて北海道大学を歩いた際、その素晴らしいキャンパスに感動し、志望する大学はぜひともこういうキャンパスを備えた大学にしようと心に決めた時を思い出した。モチロン、北大なんてハナからムリ、結局は八王子の山の中の大学に行く事になったけど、そこも出来たばかりでキャンパスは広かったな。

入学式は3日だが、私は仕事が詰まっているのでカミさんだけ出席する。ま、大学生にもなって、入学式なんかにノコノコ両親揃って出向くのもヘンな話だ。ましてやこの大学、入学するより卒業する方が遥かに難しいアメリカ方式で公用語も英語と来ている。喜ぶのは無事にその日が来てからで十分だろう。

いずれ暖かくなったらドライブ方々、温泉旅行のついでに覗きに行ってみようとは思っているが。

・・・・・・・

で、カミさんの仕事が終わるのを待って、イタリアンレストランで軽くお祝い。と言っても、今回はいつものお店ではない。仕事の終わる時間が遅いので、時々ランチで出向いた事もある東中野のお店にした。

夜はどちらかと言えばワインバー的な面持ちのお店で、前菜のなめろうみたいなサラダからアスパラガスのグラタン、メインの三元豚のソティに至るまでやや濃いめのソースや味付け。だけどそれがワインに絶妙にマッチして、このお店がタダモノではない事を物語っていた。

私自身も出張が多い上にカミさんも働いているゆえ、一般的な家庭よりも外食比率なども高いのでエンゲル係数も高めだと思っている。だが、それがいろいろなお店との出会いを導いてくれていると感じているし、その事がこの年代に至ってある程度の豊かさを味わう一つのジャンルとなっている。

グルメもクルマも温泉旅行も決して入れ込み過ぎる事なく、でもそこそこ適当なのめり込み具合で付き合って行くのがいいのかもしれない。

あ、カミさんとも、ね。








この日を忘れない

父を亡くした家族にとって慌ただしい作業が始まった。

稀少な疾患ゆえ医師からの病理解剖の申し出に今後の治療解明のためと応え、たっぷり4時間以上を掛かけてそれが終了した後、家に帰りたがった父のために一旦自宅へと搬送してもらった。その際、手際よく待機していた葬儀社スタッフのビジネスライクな営業口調には、そのままそこに葬儀を依頼する気は起きなかった。

タテマエや形式よりも気持ちを重んじていた故人の遺志により、葬儀は家族葬のような近親者のみの集いにしようと決め、声をお掛けする人のリストアップを母に依頼した。母も最初は少人数の葬儀をイメージしていたはずが、実際に数えてみると総勢30名ほどに膨れ上がっていたのだった。

考えてみれば無理もない。付き合いのある最小限の親戚だけでも10数名を数え、どうしても外せない父と母の友人関係でも同じ位の人数になったのだから。

それでも絞りに絞って、相手にも人数を増やさぬようお願いしながら電話連絡を開始。同時に地元の小規模な葬儀社と打ち合わせ。幸い、翌日の土曜、日曜で通夜・告別式が可能との事だが、何せ翌日という事で作業がさらに慌ただしくなった。主催者側にはゆっくり感傷に浸っている余裕などないのだと実感。

・・・・・・・

通夜の始まる2時間前に早々と来たのは父の高校時代の友人達。何かとせっかちだった父と夫婦単位で数十年間も付き合って来たとあって、たぶん1時間前くらいから押し寄せるだろうなと覚悟はしていたが、その予測はあっさり覆された。

真っ先に現れたのは友人の一人で現職僧侶のIさん夫妻。実は、抹香臭い葬儀も嫌いだった父のために僧侶を呼ぶ事をせず、焼香の代わりに献花で執り行う事を決めていた葬儀社もこれにはビックリしたようで、慌てて焼香台を設える騒ぎに。

本人は通夜までいられない用事があるらしく、何食わぬ顔で焼香、読経を始める。しかも今は納棺師による化粧などが行われている最中で、その手を一時停めさせての荒業だった。他の友人達も釣られて焼香、揚句に遺族の方々もどうぞと仕切り始める始末。おいおい、通夜はまだだっての! まあ、これが長年の親友ならではの流儀なんだろう。

納棺業者から遺体に着せる装束や持たせる小道具あれこれを打診され、どうするものか迷っていると、すかさずIさんが「シンプルでいい。そんな装束は江戸時代までだ!」と言い切るモンだから業者も唖然。何せ僧侶が言うんだから二の句も告げなかった。結局、靴下好きだった父に足袋を履かせるだけにした。

今まで数々の葬儀に参列して来たが、当事者というのは傍から見ているよりも大変で、友人という立場で駆けつけるのが感情に一番浸れるのだと知った。

・・・・・・・

結局通夜は、父の高校、大学時代の友人達の数の読み違いにより20名以上も増えてしまったが、賑やか好きだった父はむしろ喜んでいただろう。一刻も早く退院して会いたかったのはこの人達に違いなかったのだから。

通夜が終わって弔問客を送り出した後、私と長男は葬儀場に残って泊まる事にした。

午後8時過ぎから午前2時頃まで、父の前に座布団を敷き、サシで酒を酌み交わしながらとつとつと話す。こんなにゆっくり二人で酒を飲みながら話をしたのは初めてなんじゃないかとその時気づいた。

河島英五「野風僧」の「お前が二十歳になったら、酒場で二人で飲みたいものだ」を楽しみにしていたものの、息子の勤務地などの関係もあったが、それが叶ったのは実に10年近く経ってしまった後だった。

これも父の導きだったのだろうか。

・・・・・・・

若干寝不足の朝を迎え、午前中の告別式。この日は当初の読み通りの人数で一安心。

献花、弔電披露と進んで、いよいよ喪主である母の代理として弔問客へ会葬御礼。ここで前夜に考えたネタを披露。

「・・・生前、戒名など不要と言っていた父でしたが、そうは言ってもあの世で認識されないのも困るかなと思い、勝手に戒名を考えてみました。
生涯薬の道を歩んだという事で「薬道院」、山登りが好きで世話焼きと言われるくらい人が好きだったので、名前の一字を使って「敬天愛人」ならぬ「敬岳愛仁信士」と名付けました」

これには皆さんから良い戒名だと誉めていただけたのだが、その後がいけなかった。

「・・・齢80歳近くまで生きた父でしたので、残された家族もいっぱしの大人ばかりです。今後のご心配はあるでしょうが、どうぞご安心ください。
家族全員で亡き(父に代わりまして)母を支えていきたいと思います」

見事、( )を言い飛ばしたのだった。

妹が噴き出したのを皮切りに場内が笑いに包まれた。よりにもよって告別式の御礼の場で笑いを取ったのは史上初めての事だったかもしれない。

ま、下書きもなく喋らされたのだからしょうがないか。

・・・・・・・

寒い日だったが、雲一つない晴天の日でもあった。

こうして父は見送られ、骨壺に収められる身となって家へ戻って来た。私は決して唯物論者と言うわけではないが、少なくともこの2日間、母や妹のようなその場の感情に左右される事はなかった。

私は息子であり、失ったのが男親だったというからかもしれない。思うべきはこれまでの父との関わりであり、大事な事はそれを折に触れて思い返す事だと思っている。

忘れないというのが故人への最高の供養だと信じている。




息子の一番長い日

昨夜半、病院に詰めている妹から電話があった。

昼間は安定している親父の呼吸が夜になると苦しくなって来ると言う。実はここ2日間、ロクに眠れていないとも。

そうは言っても、主治医の来る翌朝まで待たないと処置は受けられないようなので、朝になったらまた状況報告してくれと言って取りあえず電話を切った。

そして今朝。6時半過ぎに電話が鳴り、さらに呼吸が苦しいとの本人の訴えにより昇圧薬と睡眠薬の投与がされると言う。

急変の状況とそれに対する処置の意味するところを理解した私は、家族を連れて一路病院へ。

病室では睡眠薬で鎮静を得ている親父が、酸素マスクの中で早めの呼吸をしていた。この時、SBP 110mmHg、HR 105、SPO2 95%と呼吸数が30後半という以外は安定しているように見えた。

少し安堵した我々は、談話室で食事を摂った。その時私は、万一を考え、二人の息子に言った。「お前たち、よく目に焼き付けておきなさい。人がどうやって死を迎えて行くのかを」

そして1時間。SBPが90mmHgを割ってきた。同時にSPO2も80%台へ。呼吸数も40前後。

さらに1時間が過ぎようとした頃、その時は突然訪れた。

SBPが80mmHgから70mmHgへ下がっていき、やがて60mmHg台へ。SPO2は70%を切っている。HRも50台、呼吸数は逆に20台へと滑らかに変化を示していった。それは確実に最後の時に向かっているという証しだった。

午前11時直前、その数値の全てが親父の生体反応の終焉を示した。

80歳目前にして、人生で初めて入院加療を受けた親父は、あらゆる検査や治療を受け入れつつ、肺炎による呼吸困難にも耐え抜いた末に、見事なフィナーレを迎えたのだった。

顔の半分を覆っていた酸素マスクが外され、実に久しぶりに見る素顔の親父に対面した時、思わず「Good Job! お疲れさまでした」とつぶやいていた。

・・・・・・・

自らが二代目として経営する東京下町の薬局の息子として私は生を受けた。

高校生の頃、確たる自信もないクセに将来は国語の先生兼小説家になりたいと言った私に、お袋は真っ向から反対し、親父は半ば諭すかのように私の志向とは真逆だった薬学の道を進ませた。

薬局を開設した祖父、それを継いだ親父、その息子と三代が同じ薬科大学を卒業しつつも、不肖の息子だけは薬局を継がなかった。親父もそこまではいいとばかりに、オレも世間並みに定年退職するんだと言って店を閉めた。

サラリーマンとなった私は、営業畑を中心に数社を渡り歩いて今の会社で研修トレーナーという職種に就く事になったが、それはすなわち、かつて私がなりたがっていた教師と同類の仕事に他ならなかったのである。

巡り巡って、ついに天職と言える仕事に辿り着けたというわけだ。

振り返ってみれば、薬科大学で非常に興味を惹かれた生化学という学問に出会えたのも、この業界にスムースに就職できたのも、望む転職を重ねつつ今の職種に遭遇できたのも、大なり小なり薬剤師の資格がモノを言っているのだと、今つくづく実感しているのである。

そしてそれは、何よりもこの道に進ませてくれた親父のおかげだと思っている。

私の親父に対する最大の感謝はこの一点に尽きる。

ゆっくり休んで今後の我々を見守っていてください。

ありがとうございました。





あたふた週間

先週の土曜日はカミさんの仕事が休みだったので、午後から二人でプリウスに乗って親父の見舞いへ。

実はこの日の午前中、真菌性肺炎を発症し、熱発と共に呼吸困難になったと聞いていた。主治医(と言っても30代と20代と思しき2名のDr)との事前打ち合わせで、母親の希望もあって呼吸困難に陥っても挿管まではしないと決めていた。

それまで親父の顔には、鼻と口を小さく覆うくらいの酸素供給器が着けられていた。これは文字通り高濃度の酸素を口元に供給する装置で、呼吸はあくまでも自力で行なうものである。呼吸機能の目安である動脈血酸素飽和度(SPO2)は指につけたパルスオキシメータで計測され、これが90%を切ってくると呼吸が苦しいと判断される。

そうなると昔は気管切開か気管挿管してレスピレータ(人工呼吸器)に変更しないとならなかった。だが、この人工呼吸器は全て機械によって呼吸が管理されるので、傍からはまさに「生かされている」と見える状態になる。機械仕掛けのため、たとえ本人の自発呼吸機能がストップ(脳死など)しても動き続ける。

母親にはそうまでして延命させたいという意思はなく、親父も常々そう言っていた。だからこのまま肺炎による呼吸機能低下が進めば、親父にはご臨終の運命しか残されていないという事になる。

ところがテクノロジーの進歩とは大したモンである。今では気管挿管前にBiPAPと呼ばれる陽圧をかけてさらに呼吸を楽にできる装置があった。口と鼻を広範囲に覆う形の器具を装着し、そこから蛇腹パイプが延びていて酸素を供給する。その姿はまるでジェット戦闘機のパイロットみたいでカッコイイ。

そんなこんなで、肺炎による呼吸困難は緩和され、あとは健常人よりも時間がかかるだろうが、肺炎の鎮静化を待つばかりとなってひとまずヤマは越えたようだ。

とはいえ、原疾患(末梢胆管消失症候群)が改善されたというわけじゃないので、そちらは現在ステロイドパルス療法が試みられているが、どこまで効果が得られるかは未知数である。何せ、主治医曰く大変珍しい疾患だそうで、さまざまな精密検査はもちろん、遺伝子解析やらも実施された。たぶん学会で発表されるような症例なのだろう。

・・・・・・・

あきらめがいいと言うか、何かと悲観主義の母親と比較的楽観主義の私。

そんな母親から、今にも危ない状態になったようなメールが届いたのが日曜の深夜だった。何と2つ目のメールには葬式の希望まで書かれているじゃないの! さすがの私も、すわ一大事とばかりに月曜から開催される全国営業会議 in 横浜への出席を断念し関係者にメールを飛ばした。同時に、これまでお見舞いを断っていた近親者へも連絡し来てもらうようにした。

日曜午後には小さな個室病室に総勢10名が詰めかけ、事の成り行きを見守ったのだが、親父の状態はかなり安定していた。一同、母親の悲観主義に振り回されたとホッとした。

それでも高齢者で免疫低下状態の真菌性肺炎だから油断は禁物。大事を取って火曜日も会議を欠席して病院に詰めた。さらに今日になっても急変が見られない事を確認して午後から出社した。

これまで親族などの近親者の死には接して来たが、最も身近な自分の親ともなるとその感覚は少々異なるものだと実感した。主観的な息子の自分と妙に客観的な医療関係者の自分とが共存し、さほど感情に押し流されているわけではない。まだ十分に切迫感が湧いて来ないからかもしれないが。

病室を訪れる家族や親戚の人達は親父の手を握ったりしているが、私はまだそんな気持ちにはなれず、ただ見ているだけである。手を差し出す親父も親父だな~、男のくせにちょっと気持ち悪いな~、なんてね。

ともあれ、まだまだ一進一退は続くだろう。せめて今月中はできるだけ東京を離れずにいつでも連絡を受け、動ける状態にしておこう。



(追記)
今日は息子の大学受験1校目の合格発表日。「どうだった?」とメールしたら「よゆー」とのレス。言っとくけど、こんなところに合格したからって自慢にもならんわ! 本命はあくまでも学費の安い国公立校だぞ。





親父、黄色くなる

「親父の白目も顔も黄色くなって入院した」

母親からその一報が入ったのは月曜の夜だった。その前の週に近くの開業医で診てもらい、直ちに近くの病院へ紹介入院した。その病院が選ばれた理由は、駅の階段を踏み外して足首を骨折した妹が先日来入院していたので、親子一緒の方が何かと都合がいいだろうという事だった。おいおい、そんな理由で入院先を決めちゃっていいのか?

思った通り、その病院は整形外科がメインであって肝臓関係のエキスパートはいないようだ。案の定、血液検査やCT検査をやっても原因は不明だという。親父も生牡蠣などは口にしていないし、思い当たる事といえば、高血圧と痛風の薬を服用しているという点だったため、今のところ周りは薬剤性肝障害の疑いが強いと思っている。

それでも事は黄疸を伴う肝障害、確定診断の上、的確な治療が必要との事でさらに国立病院へ転院したのが火曜日。最初の病院と同じような検査を実施したものの、やはり原因は判らない。若い主治医は、原因が判らないうちは治療を開始できないと、今度は肝生検(Biopsy)をやるらしい。この病理検査によって、たぶん肝がんと肝硬変を除外診断したいという主治医の意図が窺える。

除外されてしまえばヤバい疾患は当面否定できる。後は黄疸が引くまでの時間の問題となるだろう。今後、急変さえ無ければ年内にも退院できるかもしれない。長男と一緒に妹とを見舞いがてら親父が駐車場に停めっ放しにしていた車を引き取りに行き、続いて親父を見舞って本人に上記の見解を伝えた。

齢80寸前まで入院などした事のなかった親父だけに、家にいて我儘言っている時とは打って変わって声も動作も実におとなしい。まぁこんな事も、たまには己を見つめ直すめにいいのかもしれない。世の中にはこの歳まで生きられずに亡くなる人も多いのだから。

・・・・・・・

さて、ドジな妹の方は幸いにも単純骨折だった。針金で固定するような手術の翌日には早くも歩行リハビリが開始されたようで、幸か不幸か私の担当製品の出る幕は無かった。現在は大事をとって片松葉杖で歩いているが、別に松葉杖を使わなくても歩けるようだ。所詮はケガだから時を置かずに元に戻るだろう。

それでも今年前半の母親の総胆管閉塞と言い、ここに来て病院とは無縁だった実家の連中が相次いで病院のお世話になっているのは因果の巡り会わせというモンか?

そういう私も今朝の追跡検診で肝機能検査値が有無を言わさぬ右肩上がりだという事を思い知らされたばかりだった。先ずはお酒の機会を減らし、機会があっても少量に留め、出来れば1日30分は歩行運動をやって肝機能の改善を図ると主治医に約束されられたのだった。

思えば私も十分にいい歳だ。いつまでも若い時と同じ量を飲んで同じダメージで済むと思っている方がアホですとも主治医は言った。

おっしゃる通り! 年末行事と全国研修ツアーのダブルパンチが襲って来る今年の師走を控え、せいぜい精一杯節制するとしようか。





おめでとう&おめでとう!

16日早朝、7:30のスカイマーク便が遅れて離陸したのは7:50頃だった。

社会人になってすぐの薬学会、何年か前の研修ツアーの時以来、3度目の熊本行き。その目的は29歳の従弟の(実は二度目の)結婚式だった。前回は沖縄、残波岬にあるリゾートホテルがその舞台だった。それからおよそ4年経って、今度は新婦の実家のあるここ熊本の地に我々一族が再び集まった。

新婦側の親族に比べてこちら側の親族はせいぜい10名程と少ないため、どうしても参列客の人数がアンバランスになる。そこで前回もそうだったが、叔父である新郎の父の友人夫婦が3~4組駆けつけるのだが、これが還暦過ぎのチョイワルOYAJIばかりで、事あるごとに「また」とか「デジャヴ」とか「今度は」とかの禁句は気をつけんとイカンわな、などど大笑いしながらのたまう。ハナからこきおろし満々の姿勢である。

午後2時の挙式から始まった結婚披露宴は、新婦の二度のお色直しやら、JAL系列会社に勤める二人の同僚のパイロットやCAによる馴れ初めドラマなどのVTRが4本、仮面をつけた現役CA達のライフベスト・ダンスというレアな出し物などで延々5時間近く続いた。現役スッチーのこの写真、売れるかな?

「あんなVTRを作れるほどヒマしてるから会社が潰れるんだよ」などとホザいてたチョイワルOYAJI達も、ここまで長い披露宴にはさすがに辟易していた。

ようやくそれが終わると一旦ホテルに戻って着替え、20時半から新婦側主催の親戚固めの食事会。

せっかく熊本城一望のロケーションの「城見櫓」という割烹料理屋で、定番のからし蓮根、一文字(わけぎ)のぐるぐる、熟成チーズのような豆腐の味噌漬け、ダンゴ汁などの郷土料理に魚介刺身、霜降り馬刺し、煮魚、焼き魚、地鶏などの名物フルコースが並んだものの、ロング披露宴の飲み食いでロクに食べられなかったのは残念至極。でも球磨焼酎の爽やかな香りと味わいに杯も話も弾んだ一時だった。

翌日はゆっくり目の朝食後、目の前のデパートを散策。それでも飛行機の時間まで3時間余りあったので、観光タクシーを手配して、阿蘇山経由の空港行きのコースでチェックアウトした。この2日間は天気に恵まれ、東京と同じくらい暑いものの風があるぶんベトベトせずにいくぶん過ごしやすい。

お約束の阿蘇中岳の火口に向かったが、運転手に寄れば、実はここはいつでも観光できるわけじゃないと言う。まずは風向きが問題で、有毒ガスが吹いて来たらすぐに立ち入り禁止になる。それをクリアしても今度は霧が出ると肝心の火口どころか山すら一切見えない事もしばしば。マトモに見えるのは10回行って1、2回程度だと言う。

それがこの日はドンピシャ! 運転手も驚いたたが、やっぱオレはヒキ強いわな。小学生の頃の国語か社会の教科書で見て以来、実物を拝むまでに40年以上も経ってしまったが、阿蘇の火口や草千里などは、意外にも想像していたよりも小規模だった。それでも雨が溜まったせいか火口の青い水の量は普段よりも多いそうだ。

一族、友人が集まる結婚式もいいけれど、このまま4年毎にやってたらオリンピックみたいである。「4年経ったらまた会いましょう」じゃ、まるでブラック・ジョークだな。ぜひともここでピリオドを打って、早目の子作りにいそしんで欲しい。 ・・・でも次もあるなら今度は北海道がいいな、なんてね。

いずれにしてもメデタイ、メデタイ。

・・・・・・・

翌日帰京、夕食後一眠りして午前3時半に起きた。そう、女子サッカー ワールドカップドイツ大会の決勝戦、なでしこvsアメリカ代表の大一番だ。これを観ずして寝てられるモンかっての!

なでしこJAPANはこれまで女子サッカー絶対王者のアメリカに21敗3分と一度も勝っていない。だがそれがどうした! 彼女らは強敵だったドイツ、スウェーデンなどを破ってここまで来たのだ。一発勝負では何が起こるかわからないぞ。

平均身長で10cm以上高いアメリカはロングボールを多用して日本ゴールに攻め込むが、日本も必死のディフェンスをしつつ次第に落ち着きを取り戻し、何とか乗り切って無得点のままハーフタイムを迎えた。

だが後半24分、ラピノーが前線に送ったパスを熊谷のマークを外して抜け出したモーガンが左足! ゴール右隅に決まり、米国がついに先制点を奪ってしまった。さすがFIFAランク1位の王者、ワンチャンスに強い。

後半の失点ゆえ、一瞬「やっぱりダメか」と思ったのは私だけだった。決して諦めない彼女らは35分、右サイドでボールを奪った永里がクロスを入れる。中央で米国DFがクリアしきれずにいたスキを突き、宮間が左足で押し込みGOOOOOAL!  ハッキリ言って夢を見ているようだった。

この同点弾で後半終了、試合は延長戦突入となった。

前半終了直前の14分、再三日本を脅かしてきたモーガンがドリブル突破からクロスを入れると、長身FWのワンバックがヘッドで押し込んで勝ち越しゴールを奪ってしまった。これでいよいよ万事休すか?

いやいやいや! 踏まれても咲くなでしこは全然諦めない。

後半12分のドタン場、宮間のクロスに、ニアサイドに飛び込んだ澤が右足アウトサイドで合わせて5得点目のGOOOOOOOOOAL! ここ一番、エースの一撃で二度までも追いついたではないかぁぁぁぁ! 思わず涙が出そうになったぞ~!

最強王者相手にこの凄まじい粘り! ここまででも十分過ぎる偉業と言っていい。ああ、生で観ていて良かったぁ~!

この後に控えるPK戦は、まさに時の運だ。例えPKで敗れても彼女らへの賞賛はいささかも揺るがない。だから力一杯やりきるだけで良い。結果は勝利の女神のご機嫌次第だよ。

ところが、ここで女神は日本のガンバリに微笑んだのだった。

先攻のアメリカは王者のプレッシャーのせいか、GK海堀のファインセーブもあって3連続で外したのだ! このアドバンテージを維持したまま、最後は熊谷が見事に蹴りこみ、3-1でついについに、なでしこJAPANNは悲願の世界一をもぎ取ったのだった。女子ゆえ苦労して来たキャプテン澤は得点王でMVP! モチロンこれも日本人初だ。

努力は報われたね、日本代表おめでとう!


(追記)
なでしこJAPANは、名前に「希」や「穂」の字のついた選手が活躍する場面が目立ったと気がついた。決勝PKを決めたDF熊谷沙「希」を始め、MF川澄奈「穂」美、MF阪口夢「穂」、FW永里優「季(こりゃニアピンだ)」、そしてキャプテンの澤に至っては「穂」と「希」の2つとも持っている。

DF鮫島とMF宮間は「彩」と「あや」でこっちも同じ読みで活躍。いや~、持ってる女性は違うなあ~。




卒業はしたけれど

息子の中学の入学式以来、6年ぶりに今度は高校の卒業式出席のため函館へ行く。

今回のホテルはカミさんオススメの「湯の川プリンスホテル 渚亭」で、最後の函館だからと露天風呂付きの部屋をリザーブした。オフシーズンなので半額近い料金で、夕食、朝食ともブッフェスタイルの食事付きだった。

今年の函館は例年の2倍くらいの降雪で、街中もしっかり銀世界。ベランダの露天風呂のすぐ前の海は、波打ち際まで砂浜のすべてが雪に覆われていた。これはなかなかお目にかかれない絶景だ。天気が良ければ遥か下北半島大間崎、津軽半島などが見えるそうだが、こちら側は晴れでもあいにくあちら側は雪雲が重く掛っていて見えなかった。

それでも42℃くらいのちょうどいい塩梅の源泉掛け流しの露天風呂に浸かっていると、外の寒さと相俟って、これがホントの頭寒足熱! 気持ちイイったらありゃしない。このままいつまでもこの雪景色の中にいたいと思った。

だが、この夜は卒業式前夜祭と銘打って関東組父兄を中心とした飲み会が開催されるためボヤボヤしていられない。せっかくの夕食ブッフェなので、軽く味わってはおこうと6時前にレストランへ降りて行った。まあ、ホテルのブッフェと言っても大した事はない(少なくとも6年前のホテルの夕食ブッフェは記憶に残っていない程度)とは思っていたが、それはものの見事に裏切られたのだった。

刺身、カニ、海鮮焼き物などの和食メニューはもちろん、ステーキあり天ぷらあり中華あり、なんと数十種類の料理のオンパレードではないか! しかもそのどれもが高いレベル。これなら食事はおろかシメのデザートも、いやいや飲み会だって全てここで完結出来てしまうじゃないの! これまで年1~2回は函館に来ていたカミさん、いつもこんないい思いをしていたと思うと腹立たしいわ。

ちょっと味見のつもりが、ついつい腹に入れ過ぎ、慌てて前夜祭会場の居酒屋へ移動。すでに総勢20名超の父兄が集まって、まさに大宴会の様相。学校創立50周年記念の函館ワインもあったが皆さんにあんまり受けず、逆に秋田支部からの高清水純米大吟醸の美味さには大絶賛。皆に一度オチョコで振る舞われた後、残りは我々のテーブルでこっそり平らげてしまった。これだけで一同(具体的にはWさん、Hさんと奥様そして私)は大満足!

結局11時過ぎまでワイワイと盛り上がり、寒さもあって今回はカラオケへはなだれ込まずにそれぞれホテルへ帰還。私もカミさんに引きずられてドナドナ状態でホテルに戻った。

・・・・・・・

早朝、そそくさと露天風呂に浸かってリフレッシュ。これまた充実した朝食ブッフェの後、夕食で食べて気に入ったホテルオリジナルの細切りのイカの沖漬にシシャモの卵を和えた珍味を購入し、チェックアウトを終えて学校に向かった。

卒業式の会場は6年前の中学入学式と同じ体育館。前方に卒業生の席、中程に在校生の席、後方に父兄の席となっていて、父兄席が埋まってくる頃、まず在校生が入って来た。この学校には制服はないが、それでも大多数はジャケット姿だった。だがパーカーやジーパンという生徒も一部いた。まあ、勝手に式に駆り出されて面白くもない気持ちも分かるけれど、ここはセレモニーの場なのだから少しは考えても良かろうモノを。

やがて合奏部の演奏する「威風堂々」の曲に乗って卒業生入場。だが私にはこれがどこかの製薬メーカーのイメージCMにダブって見えてしまう。彼らはほぼ全員ダークスーツにネクタイという出で立ちだったが、中に2人、羽織袴の生徒がいたのだった。たとえキリスト教の学校であれ、日本男子としての正装をチョイスした心意気に感心した。思わず拍手の手にも力がこもる。願わくば、再び着るであろう成人式では暴れないで欲しい。

卒業証書授与。担任から名前を呼ばれ、大きな声で返事をする姿は実に清々しいものだが、残念ながらそれは少数派、大抵の生徒は聞こえるか聞こえないかのような返事だった。果たして息子の返事も我々の耳に届かなかった。あ~、少しは期待してしまった私がバカだったわ。

・・・・・・・

式の後に学生食堂で開催された簡単な立食の祝賀会終了後、息子の仲良しのH君一家とパスタ&ピザ食べ放題の店へ。そこで息子とすでに立派な体格のH君、そして彼の弟の3人が食べること食べること! まさにマシーンの如く、直径30cmはあるピザを彼らは一人3枚以上は食べただろうか。それにパスタとデザートとドリンクと来れば、その食欲の凄まじさも分かろうというもの。

帰りの便は雪で40分以上遅れたものの、無事に羽田空港までたどり着いた。前日から停めていた車に乗って夜の首都高をひた走った。ここでもアーシングの効果か、加速に伴ってエンジンがうなりを上げて吠える音が迫力を増していた。これでますます「駆け抜ける歓び」まっしぐらだわ。

・・・・・・・

ともあれ、これであっという間の中高6年が過ぎた。

一口に6年と言っても、生まれたばかりの赤ちゃんが小学校へ入学するまでの時間であり、小学校へ入学した子供が卒業するまでの時間であり、中学校に入学した子供が大学受験するまでの時間でもある。この6年という時間を三たび潜り抜けて今日が迎えられたと思えば、その感慨もひとしおかもしれない。

だが彼らの長い人生はまだまだ始まったばかりである。今日という日は確かにマイルストーンではあるけれど、充実した人生のためにもっともっと大きく広くチャレンジを続けてもらいたい。だから今はひたすら前へ! である。

いつしか自らの人生を静かに振り返る時が来たら、きっとその答えが見えて来るだろうから。




受験間近に麻雀だと

今朝の気温は冬らしく気持ち良く12℃まで下がったので、この冬初めてコートを着て出勤した。

今週は、今年最後となる専門営業部隊の研修&会議が火~水曜、翌日の木曜はメンバーの中で現場でイマイチ・パフォーマー4名ほどに居残り補講を実施、さらに本日は競合会社から中途入社した1名と、研修と言うより両社のこれまでの活動について情報交換をしたり、質疑応答を交わすセッションを行なった。ともあれ、これで来週火曜に予定されている基礎研修パート3の講義で今年の研修はすべて終わらせる算段だ。

結局今年も毎月のように様々な研修やそれに伴う出張ばかりの一年だった。慌ただしかったものの、それはそれで単純なデスクワークばかりよりもよっぽど良かったけど。

・・・・・・・

昨日、休みだったカミさんのもとへ息子の高校の寮から電話が入ったと言う。

なんでも、受験を控えたこの時期に5、6人が固まって部屋で麻雀をやっていたそうな。金を賭けていたわけではなかったらしいが、ご丁寧にメンバーの誰かがわざわざ麻雀パイまで買って来ていたらしい。雀卓まで完備していたかどうかまでは知らない。こういう事件が起きた時、例によって主犯格にならない(なれない?)我が息子、今回も単なる参加メンバーの一人止まりのポジションだったようだ。

それにしても後2ヶ月に迫った大学受験だが、志望校合格に決して有利な成績ではなく、本人も「ボクに必要なのは努力だけです」とのたまっていたクセに、この体たらくは何だ! という憤りは感じたにせよ、一方でイマイチ解せないのは学校側の解釈と対応である。

戦後の混沌期の阿佐田哲也「麻雀放浪記」のバイニンやヤクザの定番ギャンブルなどという、麻雀に付いて回っていたネガティブ・イメージなどに全くと言っていいほど影響されているはずのない世代の息子達に、なぜ麻雀が(各家庭に電話報告が行くほど)いけないのかという説明が十分なされているのかどうか。

昔、上の息子が修学旅行で友達と花札をやって先生に見つかった時、いみじくも「トランプは良くて花札がいけない理由が解らん」と言っていた。今回も、学校側はトランプは良くて麻雀がいけない理由をきちんと説明すべきである。ただし、「今の時代の麻雀」がいけない理由を、だ。

その上で、本当にいけないと肝に銘じさせたいと言うのなら、息子が帰ってきたら私が相手になって小遣いを巻き上げて締めてやっても構わんが、しょせん息子らにとって麻雀は、(若干大人のニオイのする)テーブルゲームの一種という感覚でしかなかったんじゃないかと思う。

ちなみに私が初めて麻雀を見たのは母方の祖父の家で、手を染めたのは中学生の時だった。動機はもちろん好奇心である。阿佐田哲也氏も健在だった。

・・・・・・・

そんな息子も6年間に及んだ中高の寮生活を終えて、来年2月に卒業式を迎える(予定だ)。一族揃って函館に行ったのは6年前の中学の入学式の時で、それ以来、少なくともカミさん以外は函館へ行く事がなかった。なので、来たるべき卒業式は、早々と日程を押さえて6年ぶりに行ってみるつもりでいる。湯の川温泉と魚介料理に思いを馳せて・・・。





恒例 一族食事会

息子が帰省して来ると決まって電話が鳴る。息子の祖父母、即ち私の父母から食事の誘いである。昨日電話があり、今回は皆が好きな天ぷらにしようという事で、新宿高島屋13Fの「つな八」に久々に顔出すと言う長男も含めた6人が揃った。

長男は親に似て勉強嫌いを公言し、大学進学を希望しなかった。高卒の時に受けた国家公務員試験に合格し、真っ先に面接の誘いのあった横浜税関に勤めている。最初は港の見張り番らしき仕事をしていたが、仙台空港で麻薬犬の飼育をやった事もあった。

実は横浜税関の管轄範囲は、東京を除く太平洋岸の空港や港で、北は気仙沼あたりまであるらしい。現在は再び横浜に戻って赤レンガ倉庫の近くでオフィスワークをやってるらしいが、詳しい業務内容は本人以外知らないし興味もない。ま、日本が島国である以上、税関ならなくなる事はあるまい。

そんな長男が、またもインチキ韓流スターのような髪型、モノトーンに金銀プリントシャツ、、鎖アクセのいでたちでやって来た。「公務員のクセに何でそんな格好をするんだ。それじゃまるで税金ドロボーだろが!」と、さっそく一喝してやったが、軽くいなされた。

ネタの質も良くボリュームもあるCP抜群の「特撰江戸前膳」に生ビールと冷酒で大満足。「つな八」と言えば新宿本店がそばにあるが、いつも行列が出来るほど混んでいる。ここはいつ来ても比較的空いているので「つな八」の穴場だと思っている。ま、昼間から飲む酒もオツなモンですな。

その後はケーキを買って我が家でコーヒータイム。何だかんだ言いつつもケーキは全員別腹、6人がかりであっという間にホールケーキ2個が消えた。

そのまま長男は泊まって行くという事なので、引き続き宴会夜の部へ突入予定だ。酒の肴に刺身などを適当に買って、残っていた吟醸酒3種の中から選ばせた1本を酌み交わす。私の身長をとうに超えた長男、迫りつつある二男が我が家に揃う機会は年に何度も無くなって久しい。男3人に女1人という構図は一種むさ苦しくもあるが、今や我が家には貴重な光景でもある。

・・・さて、連中が風呂から上がったようだし、ボチボチ始めるとするか。




リトル・サプライズ

我が家で愛用している「華味鳥水たきスープ」の最後の1本を使って、今年最後の水炊きをした。

このスープは福岡出張の際、定番で訪れる「博多華味鳥」のもので、定期的に通販で購入している。実は、これと同じブランド名でスーパーで売っているものもある。何が違うかと言えば、まずはその容量。通販版は@600gで、これだと我々2人と息子の分までカバーできる量だ。しかしスーパー版はそれより少量なのでキツい。おまけになぜか味も濃厚さに欠ける気がしたので、私はもっぱら通販版を利用している。

それに先立つ夕刻、先日注文した私の「人生50年記念時計」がカミさんが帰宅する前に届いていた。食事の時にそれを告げると、案の定、「そりゃよかったわね。でも私は気に入った時計の一つも買ってない・・・云々」と言い出した。

その瞬間、私の目がキラリと光った。同時に手は傍らの紙袋の中へ。

「それってコイツの事かい?」

ラッピングを施した四角い箱を取り出しながら私はニヤリとほくそ笑んだ。

実はカミさんが気に入ったと言ってたピンク色の腕時計を3日前に秘かに購入していたのである。それは息子も欲しがっているソーラー電波時計「OCEANUS」だ。ザマミロ、ド~ダ、マイッタカ、てなモンである。

・・・カミさんの驚くまい事か!

久々に感謝感激もされたし、こういうサプライズは結構面白いな。またやってやろ。




A Winter's Day,

ついに9℃と最高気温がヒトケタになった東京、表を歩くと手袋が必要なほどの寒さを指先に感じる。もしかしたらホントにホワイトクリスマスが見られるかも。

修学旅行代わりの10日間のホームステイinカナダから息子が帰国して早や5日。ホワイトアウトのストームによる1日遅れの帰国となったが、成田空港からの貸切バスを東京駅で降ろされてそのまま帰宅。さっそくお礼として、クリマスカードをホストファミリーの人数分書かせて送らせた。

その日からそのまま冬休みに突入しているというワケだが、なぜか昨日、近くの中古ソフト店で旧式のTVゲーム機である「ニンテンドー・ゲームキューブ」なんぞを買い込んで来た。理由を訊くと、どうしてもやりたいゲームがあり、それはこのゲーム機でしかできないからだと言う。

やりたいゲームとは「大乱闘スマッシュブラザーズDX」と言うそうで、有名キャラが入り乱れてバトルを繰り広げるドタバタ格闘ゲームらしい。OYAJIにはもちろんそんなゲームの面白味なぞ理解できようはずも無く、息子とゲームに占領されたリビングのTVを放棄して、階下のPC部屋でフリーソフトのドラクエモドキのロープレゲームに興じるのがせいぜいである。

私はドラクエ世代の端っこにいたせいか、ゲームの中ではロープレゲームが一番好きである。反射神経や指先の複雑な動きも必要ないし、何より時間に追われることが無いのがいい。自分のペースで進められる。とは言え、本家のドラクエがシリーズを重ねるたびに複雑かつ難しくなっていってしまったのは残念だが、PCフリーソフトにはまだまだスーファミの頃の面影を残したものがたくさんある。たまにそれをダウンロードしては楽しんでいる私は、やっぱり時代遅れのゲーマーなのであった。

・・・・・・・

先週、私の来年の業務内容がほぼ決まった。従来の営業部隊への継続研修と営業スキル研修は今まで通り担当していく。加えて、来年からもう一つの新規分野の新製品も担当しつつ支店の営業部隊の推進役となるメンバーへの研修も担当する。さらに大規模施設を担当している営業部隊への新規研修、シワ取り特効薬としても有名な製品の専任営業部隊への研修など、担当業務が大幅に広がった。

当然、これら担当製品領域に関わる新しい知識の習得が求められるのだが、この歳ともなると正直言って容易ではない。どうも既に「記憶の器」というものが出来上がってしまっているらしく、新しい知識を入れれば、その分だけ古い知識がこぼれていってしまうのである。

そうは言っても時は待ってはくれない。それらの研修も続々と開始されるし、来月中旬にはプレゼンインストラクター資格試験も控えている。あ~あ、人間一生勉強とはよく言ったモンである。

・・・・・・・

さて、明日は夕方から、息子の急な成長によりフレームが小さくなったメガネの新調と帰国後初の本格和食となる寿司を食べに出かける予定である。おっと、それと大台に乗る記念にとカミさんからお許しの出た時計の下見もしておかなくては・・・財務省の気が変らぬうちに。



ハイサイ沖縄めんそ~れ!

19日の早朝、ジャケットの下は半袖シャツといういでたちで、気温21℃の東京から29℃の沖縄へ。沖縄旅行はおよそ7年ぶりである。

到着後、ワゴンタイプのレンタカーに乗り込み、一族5名が向かった先は沖縄海洋博跡地にある「美ら海水族館」。途中に寄った本部町にあるきしもと食堂で、沖縄そばとジューシーという炊き込みご飯をいただく。ダシはカツオと昆布のサッパリ系で、沖縄そばというより八重山そばと言ってもいい感じだ。少なくとも今まで食べた沖縄そばの中では一番ウマかった。

残波岬にあるホテル日航アリビラが我々の宿泊先であり、結婚式場でもある。スペイン風コロニアルの建物、海に面したロケーションは、リゾートを絵に描いたようである。

結婚式は建物に隣接した教会で行われた。この教会の最大の特徴は、祭壇の背後の大きなガラス越しに望める空と水平線の一大パノラマだ。多い時には1日7組が挙式する人気ぶりも納得できる。我々の時間帯はちょうどサンセット直前という絶好のタイミングだった。徐々に暮れ行く空と海の鮮やかな表情の変化には、教会結婚式に慣れた参列者にも強烈なインパクトを与えたに違いない。

バージンロードで花嫁を迎え、手を取り合って祭壇に進む従弟を見ていたら、同じ世代の息子の姿とダブってきて、ついついOYAJI目線で捉えたOYAJI的感動を覚えずにはいられなかった。我が息子にもいつかこんな日が来るのだろうか・・・。

披露宴後は新郎の父、すなわち叔父が呼び寄せた友人の部屋で二次会。我々を含め5組の夫婦が集い、叔父が持ってきた「久保田 萬寿」の一升瓶2本を囲んで大談笑のひと時だった。

友人達とは、叔父が学生時代からの付き合いをしていた早稲田大学山小屋研究会の面々で、その中に私の小中学生時代に家庭教師をやってくれた人もいる。休日には六大学野球の早慶戦にも連れてってくれて、おかげで自分の大学の校歌は忘れても「都の西北」は今だに覚えている。その早慶戦で月光仮面のコスチュームでスタンドを駆け回っていた方が40代の若さで亡くなった事を知り、とても残念だった。彼からパクらせて頂いたその芸を、私は宴会で何度使った事か・・・。

明けて最終日は南部のひめゆりの塔へ。新装されたひめゆり平和祈念資料館は時間の関係で見られなかったが、8年半ぶりの祈りを捧げる事ができた。

こうして3日間の一族挙げての旅行があっという間に終わった。新郎新婦の居住地は鹿児島県。カミさんの弟夫婦の居住地も鹿児島県という嬉しい偶然も重なり、次回は鹿児島「日当山温泉ツアー」での再会を約して解散した。めでたしめでたし。



あくまでもウワサですが

いつものように夕方のJAL便で、函館から息子が帰ってきた。今日から春休みに突入である。

つい昨日まで例の事件の後始末で、カミさんが早くも今年2回目となる息子の寮へ行ってきたばかりだったが、いろいろと情報を聞いているうちに、さまざまな裏事情が見えてきたそうだ。もちろん、あくまでもウワサだろうが…。

今の学校には成績上位で悪事にも聡い生徒がいて、そんな一部の生徒が、例えば自分達にとって目障りだったり邪魔だったりする生徒を標的にして、わざと怒らせて殴らせたり、校則違反をそそのかしたりしてはそれを先生に注進する。言われた生徒は先生に叱責され、中には寮や学校から去って行く生徒もいる。…というウワサだ。

学校側は全ての生徒に平等に対していると言っているそうだが、そう単純ではなかろう。これも世の中の縮図に違いない。成績上位者で、いったん品行方正のイメージを先生が認識してしまえば、その生徒の発言は常に信用されるし、仮にバレても成績上位者ゆえ黙認されるケースも多い。なんせ近い将来、ノドから手が出るくらい欲しい東大合格者の一人になるかもしれない「おいしい生徒」だからである。…というウワサだ。

まるで「女王の教室」の中学生版みたいだが、中には信じられないウワサもある。

同級生と共犯し同級生の持ち物を壊した事にして、その親に自作自演の「振り込め詐欺」まがいの電話をかけ、まんまと多額の弁済金を振り込ませたという話だ。真偽のほどは定かではないが、一部に目先のトラブルへの対処として安易に金で済ませようとする裕福な親がいるという。要は「たかだか2、3万の金で済むなら、それでいいじゃない」のだから、学校に知れる事はない。…というウワサだ。

だが、これはイタズラの域を超えた、れっきとした犯罪である。それを見抜けない親の目も先生の目も節穴じゃなかろうかと思ってしまう。一応標準以上の頭の持ち主の多いこの学校の生徒なら、悪事も巧妙に企てるだろうと、なぜ考えられないのか? 

知らないところで生徒が学校が壊れていかないうちに、ウワサとは言え、一度きちんと状況把握をしたほうがいいと思うぞ。

そして発覚しないからと陰でほくそ笑んでいるヤツは、この先どんな大人になるのかと他人事ながら心配になる。お前ら、「因果応報」という言葉を知ってるか? 一時は得したかもしれないが、長い人生、いつか報いが来る日が訪れるぞ。


急遽、カミさん函館へ

ちょうど私が大阪で研修をやっていた一昨日、携帯電話への着信がやたら小刻みに記録されていた。見るとカミさんからである。昼休みにコールバックすると、それは息子の事だった。

電話によれば、寮で息子を含めた中2の寮生のうち約20人が、修学旅行で留守だった中3の寮部屋に侵入してはマンガ雑誌などを持ち去り、読み終えれば今度は返却のために再侵入していたという事件が発覚したのだと言う。金銭の盗難はなかったようだ。

要するに誰かが「上級生の部屋には、たくさんのマンガや雑誌があるようだ。探検に行こうぜ!」と言い出し、「面白そうだから僕も行く!」と多数が参加、それがいつしか膨らんで20人になったと思われる。侵入回数は1回の者から多数回の者までさまざまだったらしい。

集団生活にも慣れが出てくれば、こういった事件も起こるだろう。金銭の盗み目的ではなかったと聞いているので、後は正直に謝り、それなりの罰を受ければ一件落着と思われた。

だが、普段から「学校から呼び出しや悪事の報告電話がかかってきたら、東京に戻すからね!」とカミさんに言われていたのに加え、自ら事情説明のために訪ねなければならない中3担当の先生が、学校で一番怖い風貌でかなり厳しいと聞いた息子は完全にビビリ上がり、泣き続けているだけだという。

寮の中2担任の先生も何度か自宅に電話を入れていたらしいが、遠慮がちな性格のために留守電に伝言ひとつ残していなかったので、当初は事情がよく把握できなかった。案外こんな先生ゆえ、普段から中2の寮生たちに押さえが利いていなかったんじゃないかとも感じたが・・・。

時は雪中運動会が開催される3連休。たぶん雪はほとんどないので、単なる寒中運動会だろうが、しょうがないので観戦かたがたカミさんが学校まで行く事になった。一蓮托生の生徒たちの父母も大挙して向かうに違いない。

まあ、詳しい状況は帰京後に判るだろう。但し、どんなに怖い先生が相手だろうが、自分のケツは自分で拭かせるべきであり、願わくば2、3発ひっぱたいてもらえば、とことん肝に銘じるだろう。事情聴取の間も床に正座で結構。

私も中学生の頃、同級生と連れ立って生まれて初めて山手線一周した翌日、学校でそれが先生の耳に入り、呼び出されてビンタを食らった事がある。交通機関を使った外出は、父兄同伴が校則だったからである。

好奇心や冒険心旺盛な年代では、善悪を考えるより先につい行動に走る時があろう。やらかした事はやらかした事で素直に認め、後はきっちりペナルティーを受ければ良い。

息子よ、さあ行け! なぁに、命までは取られんさ。

先生方、ガツンと頼みます!


回天と桜花

さて、昨日は予定通り10:00に靖国神社へ初詣。本殿参拝もそこそこに、当初の目論見の「遊就館」へ。知らないうちに本館の隣に新しい展示場ができていて、常設展示が行われていた。しかも大人800円、中学生300円と有料である。観光名所でもあるまいし、こりゃちょっと高くないか?

それでも回天桜花を直接息子に見せたくて、カミさんをロビーに残し二人で入場した。古代から幕末あたりの展示はほとんど無視して、日清・日露戦争から大東亜戦争のコーナーへ急ぐ。

そして戦死者の遺影が並んでいるコーナー。去年の春に訪れた知覧の「特攻平和会館」での特攻隊員の遺影展示と同じように万感胸に迫るものがあったが、それをグッと堪えつつ、

「この人たちが命を賭けて護りたかったものは何か」

「日本は戦争という外交手段をなぜ選ばざるを得なかったのか」

「手段の良し悪しは別にして、あの時もし日本が打って出なかったら、現在の日本はどうなっていたか」

「今の時代のいじめ問題のいじめる側、いじめられる側に置き換えればどうか」

などなど息子に語りかけた。

そして回天と桜花。実物の回天に触れながら、この兵器の意味するところを説く。特攻志願とは何だったか、それが自分だったら手を挙げられるか乗り込めるか、こんな悲惨な手段でも実行を決めた人の気持ちは…今はピンと来ないかもしれないが、少しでも思いを馳せてくれたらいいと思う。

いつの日か、今度は自分の意思でじっくり時間をかけて来てほしい。


大晦日前の一騒動

笹塚のクイーンズ伊勢丹で今日と大晦日の食材などを買い、洗車と給油をしている所にその一報はもたらされた。

母親の姉の夫である伯父が28日に肺炎で入院し、今日になってどうも容態が急変したらしく、もう家には帰れないと主治医から宣告されたという。

「すわ、一大事!」という事で、両親と母親の弟夫婦ら総勢6名の親戚が入院先の横浜の病院へ全員集合となった。地理的に一番近い我々が最初に到着した時には、伯母や娘夫婦たちはICUでムンテラを受けていたらしい。外で20分位待っていたら出てきた。

訊いてみると、肺炎は沈静化し送管も取れ、話もできる状態に回復したとの事。ホッとはしたものの、それなら危ないという物騒な情報が誰が言い出したのかが気になった。

どうやらそれは伯母からの電話だという事がわかった。伯母は11月に都内の一戸建てから娘夫婦のいる横浜市のマンションに引っ越してきてから不眠を訴え始めたらしく、たしかに正月に見た時より二回りも痩せていた。

すぐにこれは教科書的なうつ症状だとわかったが、よくよく話を聞くとそれだけじゃなかった。伯母はかなりの蓄財家で、マンションも余裕でキャッシュで買えるほどだったらしい。だが、引越し後に通帳や証券類の住所変更ができなかったのでパーになったなどと口走ったり、探し物の場所がわからなくなったりしていたらしい。以前のチャキチャキした言動とは打って変わって、出てくるのは全てネガティブな言葉ばかりだった。

明らかに認知症の始まりである。でも残念と言うか悲しかったのは、伯母の口から出る心配事は、そのどれもが金銭にまつわる心配事ばかりだったという事である。それが財産を持てる者のサガであると言えばその通りかもしれないが、もしかして余分な蓄財などなければ、こんなストレスを感じる事もなかったのかも、と思う。

こうしてみると、人間何が幸せで何が不幸のきっかけになるかは分からないものだとしみじみ思う。ああ、我が家には財産なんてなくてよかった。

今や入院している伯父よりも、この伯母の方がよっぽど心配である。



やっぱりひと悶着

初の補習通知を受け、三日遅れで一昨日帰省した息子に訊いたら、今年あたりから指名だけでなく希望者も補習が受けられるようになったそうだ。補習として集中的に勉強させられるのは願ってもない事と、私と同じように考えていた父兄の要望に学校側が応えたのだろう。食事代等を別途負担すれば受講可能だという。

「じゃあ、夏休みと冬休みは補習を全部受けてから帰って来い!」と言ってやった。この補習の間も、寮ではいつもの通りに義務自習の時間があり、ここで休み中の宿題が結構はかどるらしい。おおっ、一石二鳥ではないか。息子の方も悪い話じゃないと思っているようだ。

だがなぜか帰省してきた日以来、息子とカミさんはウマが合っていない。帰省3日目の今日などは「宿題なんかしないでいいって言ってんだからやるんじゃない! 言うことを聞いて遊んでろ!」なんて怒鳴ってる。あまりの息子の体たらくにカミさんがキレて、どうやら高校進学をやめて就職させる方向で話が進んでいるらしい。

何やかんやでこのところ帰りの遅い私は、事情がよく飲み込めずに「何のこっちゃ?」状態なのだが、まあいずれ何らかの落しどころに収まるだろうと知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。こんな事は年中行事の一つで、別に今に始まった事でもないし、カミさん一流のショック療法をまた始めたんだなと割合気楽に構えている。私としては来月の同僚とのスキー旅行に連れてってやれば、まあいいかというところだ。

・・・・・・・

話は変わって、新年間近で年を越せずに逝ってしまった人達がいる。17日は岸田今日子さん(76)、脳腫瘍による呼吸不全だった。20日は青島幸男氏(74)、骨髄異形成性症候群だった。同じ日にカンニングの中島忠幸氏(35)、2年前の急性リンパ球性白血病の再発による肺炎だった。私にとってもそれぞれ印象深い方達である。ご冥福をお祈りしたい。


招待状が届いたぞ

西への長距離ドライブから無事帰還した昨日の晩、まったく反対方向の函館からも長距離郵便が届いた。中学から息子の後期試験成績と教材費についての案内だった。

その中に見慣れない紙が一枚。見ると、校長名で「指名補習の受講について」という文字が! これがウワサに聞く補習通知だった。ついに息子にも恐怖の招待状が届いたのである。

函館の中学だからだろうか、冬休みは長く4週間近くもある。寮生は通常12月16日の便で帰って来て、1月11日に戻って行く。ところが補習は最初の3日間行われるため、補習を受けると他の寮生と一緒に帰れなくなる。これは恥ずかしいし屈辱だろう。

息子は、補習対象科目のうち国語と数学は問題ない成績だったが、英語が悪かった。1科目でも不良だと3科目すべての補習となる。補習の3日間の食費も追加請求される仕組みだ。

この補習を夏休みも冬休みも受けている生徒の親の中には、いたたまれない思いでいる人もあるという。だがウチは違った。元来、息子は手抜き癖があり、そこそこの成績が取れるとなるとナメてかかり、逆に興味のないものは初めから敵前逃亡するというとんでもない事を繰り返してきた。

私は常々「指名制で3日間なんて言わず、希望者を募って1週間でも10日でもやってほしい。授業料や食費なぞいくらでも払うから」と言ってきた。息子の場合は一度、徹底的に落とさなければ、ヌクヌクとぬるま湯に漬かりっ放しで行ってしまい、後々後悔するのが見え見えだからである。

それでも偶然にもここまで補習の招待状を受け取らずに来たが、ついに「待ってました!」である。我々は大喜びだが、本人は相当応えているに違いない。これで少しは尻に火がつくだろうか。

そういえば、このところ息子からの電話がパタッと止んでいたのだが、その理由はこれだったか。航空便の変更もしなくてはならないので、近々連絡して来る必要があるだろうが、どのツラ下げて電話して来るのか楽しみじゃわい。

それこそ「北の国から」の厳しさだと知るがいい。


これぞ我が家の定例行事

「どうだ、宿題は順調か?」
「うん。もう終わった科目もあるよ」
「それなら富士山へキャンプに連れて行ってやろう」

「宿題はどんな調子だ?」
「うん。かなり余裕で終わりそうだね」
「よし、爺ちゃん家の祭りに行って来ていいぞ」

先月、夏休みで函館から帰省した息子。いつもなら青息吐息で帳尻合わせをしなけりゃならない宿題が、妙にいいペースで進んでいる。さすがに中学2年ともなれば、少しはヤル気が出てきたようだ。それとも奇跡が起きてるとでも?

…やっぱり世の中、甘くはないのである。

夏休みも2/3が過ぎたところで、宿題の方は実は1/3も終わっていない事が発覚! おまけに、とっくに終わっていると言ってたはずの理科や数学までもが途中までしか済んじゃいなかった。さあ、カミさんの怒るまいか!

「こんな体たらくなら、帰ってきて公立中学に行きなさい! 中卒で構わんから働きなさい! バカは高校だの大学だの行かんでよろしい! お金のムダ! とっとと先生に退学の電話をしなさ~い!」

ああ、やっと我が家のいつもの風景が・・・。思えば上の息子の時から休みのたびに繰り返されてきた定例行事と言ってもいい。今回はカミさんも仕事で家を空ける事が多く、息子一人で留守番状態というのが気にはなっていたが、案の定。やっぱりそう来なくちゃ、らしくないよな。奇跡なんてそうそう起こってたまるか。

で、これまたいつものように説教は深夜まで及んだ。何とか退学は回避され、あと10日間は死に物狂いで優先順位の高いものからこなしていく事で落ち着いたようだ。その上で試験順位50位以内キープが函館に残れる条件に決まったようだ。身から出たサビとはいえ、どうせバレるウソをわざわざつく事もあるまいに。

英検4級合格に続いて3級合格の嬉しい成果も、この一件ですべてチャラ。函館に帰る最後の日曜日に茨城の海にアワビを食べに行くのもおあずけ。小遣いアップどころか、MP3プレーヤーもPS-Pも取り上げられたまま。

息子の苦難の道はまだまだ続くのであった。




一万円のラケット

いよいよ禁煙10日目に突入。肉体的依存のニコチン中毒の方は1週間もあれば無くなるそうだが、やっかいなのは脳の記憶である。「一服してスッキリ気分転換。うまい!」という経験を長年続ければ続けたほど、その記憶は強く刻まれる。これが禁煙後数年経っても蘇り、再びタバコを吸ってしまう原因となるらしい。

一種の精神的依存であるが、私も一日の中で数回苛まれている。こればかりはニコチンパッチも効果は薄く、ハードミントのガムや熱いダイエット茶などで凌いでいる。逆にニコチンパッチの方は、今の時点では貼っていても貼っていなくてもさほど変わり無いようにも思える。でもつい貼ってしまうんだな。

さて、2日にゴールデンウィーク帰省とやらで、息子が帰ってきた。今年も新入生が入り、学校も寮も賑やかになってきたらしい。息子の所属する囲碁将棋部は、息子の時に部員がどっと増えたそうだが、今年はそれを凌ぐ勢いで入部者が多かったそうだ。小学校の時からの経験がモノを言う運動部と違って、経験者であろうが無かろうが楽しめる所が人気なのだろう。多少はマンガの影響もあるかも。

息子は無事に高校へ進学できたら、今度は卓球部に入りたいと言う。卓球部は中学には無く、今は同級生と学校や町の卓球センターでたまにやってる程度だが、かなり興味を持っているらしい。その証拠に、親に内緒で何と1万円もするラケットを買っていたのだ。何人かの友人が買ったので自分も欲しくなり、親が寮に預けているお金からチョロマカしたそうだ。帰宅早々それがバレて、カミさんから大目玉を喰らった事は言うまでもない。

それはともかくとして、ここまで運動関係に殆ど接してこなかった息子が初めて興味を持って取り組んでいるという事は認めてやりたい。特に卓球は体格の良し悪しによるハンデが少ないスポーツなので、ヒョロ体型の息子も十分やっていけるだろう。無事高校に進学できたなら思う存分やってくれ。と言っても勉強もかなりハードになってくるらしいので、どこまで熱中できるかは知らないが。

その前に、GW6日間にもかかわらず結構な量出されている宿題を片付ける事こそが、息子の「今、そこにある危機」だ。



それぞれのこのごろ

桜を散らす風雨の東京。気が付けばもう4月である。

息子は3日に春休みが明けて再び函館へと帰って行った。寮に戻ったら新学期からの担任が発表になったようで、担任は変わらなかったものの息子の最も恐れる国語の先生が、なんと副担任になった。これで少しは勉強グセが育ってくるか。次回の帰省は1ヶ月後のゴールデンウィーク中である。

カミさんはケアマネの仕事が始まり、川崎大師で入社式と研修、深大寺の施設で実務という毎日を送り始めた。病院の場合と違って、老人ホームの介護保険対応はすこぶる杜撰らしい。収入源となる国に提出する書類だけは何とかあるものの、本来本人と相談して決めて行くべき介護プランもほとんど作られていないとか。

おまけにケアマネどころか何の資格も持たないオヤジが、施設長だの介護長だの年功序列ポストにいてやたら威張っているらしい。制度が厳しくなった今、もはや彼の存在価値は無い。彼もそれを恐れているのかもしれない。

そうそう、仙台空港税関に勤めている上の息子も、風邪をひいたものの元気でやってると母へメールが届いた。あっちへ行ってもう2年は経つか。という事は、またぞろ転勤があるやも知れぬ。この手の職種は、1ヶ所に長くは置かないのが原則だろうから。

さて、私はと言えば、今日から福岡と大阪へ出張である。福岡では営業社員のスキルアセスメント、大阪では学会聴講とビデオ講師予定Drとの打ち合わせ。帰京は土曜日になる。せいぜいウマい物でも食べながら列島縦断の旅を楽しもう。



桜は咲いたか、宿題はまだかいな

桜は満開なのに、先週の鹿児島と打って変わって花冷えが続いている東京。

先日、中学から息子のテスト結果などが入った分厚い郵便物が届いた。入学して1年、息子の定期テストの成績は順調に右肩下がりに下降し、順位も後ろから数えた方が早いどころか、マラソンで言えば最後尾集団という位置まで落ちた。まあ、予想はしていたが…。

原因を聞けば、やはりひたすら楽しい寮生活で遊びまくっていたとの事。寮では毎晩自習室で義務自習という時間が強制的に設けられてはいるが、トップクラスの生徒は、それ以外にも時間を見つけては自己学習に励んでいる。息子などは、その事をうすうす知りつつも「他人は他人、自分は自分」とばかりにマイブームの卓球や遊びに逃げていたというワケである。

思い起こせば私の中学時代も似たようなモンだった。授業さえ終われば、放課後の部活や友人との帰り道でのおしゃべり、さらには帰宅後のテレビなどに没頭していた。宿題を含め、成績アップの定石であるはずの予習復習など、まさに「絵に描いた餅」以外何物でもなかったのだ。

案の定、宿題も遅々として進まない息子にカミさんは激怒し、今回の帰省中に勉強の習慣を植えつけようと躍起になっているが、その傍らに自分の過去を振り返ると決して強く言えない私がいる。

だが、やはり自分の息子だなと思わせる部分もある。Z会などの外部業者の模擬試験にはめっぽう強く、科目によってはトップクラスの順位を叩き出すのである。出題範囲の決まっている定期試験よりも実力テストの方が性に合っているという点は私も同じだった。定期試験は出題範囲をコツコツ勉強する連中の方が断然強いのである。

コツコツくまなく勉強だなんて、私にはとてもそんな面倒な芸当はできなかった。苦し紛れにせいぜい無謀なヤマを張るのが関の山だった。その息子も試験範囲を定めぬ実力テストが得意となれば、無差別級一本勝負派の私のDNAを継承しているに違いないと妙に納得したのだが・・・。

とは言え、私の頃の時代と今は状況もかなり違う。ましてや望んで行った私立中高、目的は最高学府への進学に他ならない。妙な納得や妥協はほどほどにしないと、なにぶんにも私立であるゆえ、そのうち向こうから「登校に及ばず」などと宣告されかねない。

…こちらの中学より幾分長く楽しいはずの春休みも、軌道修正と叱咤激励の日々が続く。



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Chaie<チャイ>

Author:Chaie<チャイ>
最初のWebsite開設は2001年のクリスマスのことでした。その後、紆余曲折を経てこのBlogへ引越して今に至ります。これからも日々の記録とさまざまなテーマについての意見や感想などを屁理屈コラム日記風に綴りたいと思ってます。

生まれも育ちも東京の下町です。東京タワーやチキンラーメンと同い年なので結構生きてますが、せめて精神年齢くらいは若いつもりでいたいなと。

自称「日本酒のソムリエ」のつもりでしたが、検査値との闘いの末に禁酒に踏み切り、それ以来かなり普通の生活を送ってます。

下手なアコギとウクレレを弾いて昭和を歌ったり、カラオケでも昭和を歌ったりしてます。最近は40年来の憧れだったMartin D-28Mと80年代製のKamaka HF2に囲まれて幸せです。

もうひとつの大好きは欧州車! プジョー乗りのサークル「POOB(プジョー太平洋OYAJIベルト)」の関東地区元締めなるものをやってます。

実は、足掛け10年乗って来た愛車「プジョー206XS」のミッショントラブルにより箱換えを余儀なくされ、ここでも紆余曲折を経てゲルマン製装甲車のような「BMW120iCoupe」を新たな愛車としました。

それをキッカケにBMWオーナーズクラブの「Club BMW 1(CB1)」「BMWメタボ白髪連合会」などのメンバーにもなりました。

某企業のプロフェッショナルな研修職人を目指して定期的に全国を飛び回ってましたが、ステージを替えて今後は頼れる薬局のOYAJIを目指したいと思います。

愛と情熱を持ってはっきりモノが言える「熱きガンコジジイ」になりたい!

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