40年ぶりとは思えない

公休日を土曜日にシフトさせたため、火曜日〜金曜日まで4連勤となった先週。さらに通常の発注や品出しなどのルーチン業務に加え、カゼ薬から花粉症シーズン用薬への棚替え作業をこなし、まさに肉体労働三昧の果ての週末を迎えたワケである。

そこまでして辿り着いた土曜日こそ、実に40年ぶりの再会の日だった。相手は大学の先輩3名、いずれも私が大学1年生の時からどっぷり浸かったクラブ、生化学研究部(通称 生研)の先輩方である。そもそも生化学の生の字も知らなかった私、新入生クラブ説明会の日にある先輩に声を掛けられ部室に行ったのが運のツキで即入部。

それからは授業もそこそこに部室に籠って(八王子の山の中だったので、一旦登校したら外に逃げ場がない)麻雀やトランプゲーム、ギターなどに精を出し、部活の帰りには決まって府中あたりの安居酒屋で1000円コンパ(燗酒、煮込み、サンマ塩焼きなどが一品100円の時代、1000円もあれば十分飲み会が成立した)、ロクに家にも帰らず先輩の下宿に転がり込んだりしていたから、そこらのクラブの先輩後輩より遥かに濃い繋がりだった。

私自身もそんな心地良さに甘え、後輩らしからぬワガママな振る舞いをしていたのだろう、そんな先輩方が卒業して以降、現在までほとんど声も掛からず交流が途絶えていたのだった。とある日、FBで繋がった先輩の一人STさんからこの日のお呼びが掛かるまでは。

・・・・・・・

集合場所は新宿御苑前のイタリアンでのランチだと言う。御苑前エリアなら勝手知ったる場所、ほぼ時間ピッタリに到着すると、そこにそのSTさんが先着していた。STさんからは予め今日のメンバーの集合写真を送ってもらっていたので、その姿形に違和感はなかったが、それでもリッパな還暦越えOYAJIになっていた。少し遅れてSKさんとTJさんが到着、これで本日のオールスターキャスト4名が揃った。

上越の実家で調剤薬局をしているSZさんこそ来れなかったものの、あの頃の濃密なメンバーとおよそ40年ぶりの再会となったのだった。

積もる話に時間の経つのも忘れ、ランチを終えたのが2時間後の午後3時。そこから新宿駅方向へ向かいつつ雀荘を探す。もはや雀荘なんて日陰の植物だとSKさんが言う通り、途中の路地を覗いても存在の気配すらない。ようやく駅の近くまで来て数軒見つけたが、今度は意外な事に満員御礼状態。その客と来たら、若い世代も数組いたがほとんどは我々以上の世代のOYAJIばっかり。まるで行き場を失った年寄りのたまり場のような様相だった。これが今の雀荘風景だったのか。

3軒目で空き卓にありつき、私は実に20数年ぶりに牌を握った。麻雀に夢中になっていたのは高校生手前から社会人10数年くらいまで。一時は生涯無敗伝説の桜井章一氏の戦術まで勉強したものだったが、それも今は昔、勝負勘には全く自信がなかったが、先輩方の意向なら仕方ない。せいぜい大負けしないようにと祈るばかりだった。

結果はマイナス600円のトータル2着だったからまあいいか。守りはソコソコだったが、攻めの感覚はシッカリ錆び付いていてどうにもならなかった。これがブランクというモノなんだろう。

半荘3回ほど打って、今度は夕食を兼ねて居酒屋へ。さらに昔話に花が咲き、それぞれの息子娘の現況を話し終わったところでお開き。時間は午後11時近く、あの頃だったらまだまだ宵の口だったが、酒もやめた今の私にはこの時間まで飲み屋にいる事自体が珍しいのだった。

・・・・・・・

次回は先輩方が何年かに一度使っているという妙高のバンガロー(SZさんが参加できるよう、彼の居住地の近場へ行くため)で宿泊麻雀を兼ねて集まろうという事になった。私は今の仕事ではせいぜい一泊しかできないが、それでも今回会えなかったSZさんとの再会も楽しみである。

同窓会であれ、こういう個人的な集まりであれ、お互いの顔を合わせた瞬間にあの頃へタイムスリップする感覚はいつでも嬉しいものである。今回も瞬時に場の空気があの頃へ戻った。とても40年ぶりとは思えなかった。日頃、前方への時の流ればかりに弄ばれている身にとって、なまじ利害関係のない人達ゆえ、そんな仲間との集まりは安心して過去へ帰れる貴重な時間なのかもしれない。

ま、生きてればこんな事もある。




25年目の邂逅 ~その2

(その1から続く)

地下鉄の駅から待ち合わせ場所のデパート玄関へ足早に向かう。Kの今の姿かたちは分からないかもしれないが、講演会帰りでネクタイをしていると言っていたので、土曜夕方の銀座にはそうはいないだろう。それを手掛かりに玄関に入った。

正面にネクタイ姿の男が一人立っている。よく見れば、顔こそ左右に膨らんではいるが十分あの頃の面影を残しているKだった。目が合ったが、向こうもしばし私の確認に逡巡した様子。こっちも負けずに変貌を遂げているのだから無理もない。確認を終えると、まずは彼行きつけのバーへ。

銀座のバーと言えばクールかルパンあたりかと思っていたら、果たしてルパンだった。珍しくカウンター席は客で溢れていた。我々は奥のカウンター席へ通され、そこの壁には有名な太宰治がカウンターに胡坐をかいて座っている写真が飾られていた。

ここで彼は「K先生」と呼ばれている。「先生と呼ばれる馬鹿もなし」とも言われるが、客が医者ならそう呼ぶしかないのは我々の業界も一緒だ。彼のマイブームと言うモスコミュールでまずは再会を祝って乾杯。銅製のカップに軽く絞ったオレンジが載ったきちんとしたカクテルで、もちろん美味!

そこからKはギムレット、私はドライマティーニ。昔と変わらずにペースが速い。お通しのキュウリをつつきながら飲み干すと、これも彼のマイブームと言うオールドファッションドで〆た。〆たと言ってもオーセンティックバーでカクテルを3杯も飲めば@5000円は当たり前。バーで長居はヤボってもの、いよいよビストロへと移動。

・・・・・・・

ビストロ カシュカシュ」は狭い路地を入ったところにあった。まさに「かくれんぼ」という店名そのままのロケーションだ。隣りにはこれまた有名な「小笹寿し」があった。Kはそこへも行っているらしい。さすがに高収入セレブは行く店も違うねぇ。昔は居酒屋で熱燗がせいぜいだったのに。

さて、中に入って目に飛び込んで来た光景は、明るくきれいなカウンターキッチンといくつかのテーブル席。ここはフレンチビストロだけど、このこじんまりした感じは、いつも行く新宿御苑のイタリアンと重なった。つまりは間違いないお店だと私に教えてくれているのだった。

グランメゾンの名店「アピシウス」出身の人懐こくて話の弾む斎木シェフ、やはりここでも彼を「先生」と呼んでいたが、今夜ばかりはちょっと事情が違っていたようだ。仮にも院長先生に向かって遠慮なくタメ口でツッコむ私に相当驚いている。中学の同級生だとしても、彼がおとなしく人の話に耳を傾けているのを初めて見たと言う。

Kのヤツ、さぞやいつもは先生、先生と周りから持ち上げられているんだろうが、人には言えない恥ずかしい過去を握っている私の前ではそうはいかないっての。

さてメニューはコースだかアラカルトだか知らないが、適当にKに任せた。シェフが「今日はちょっとガンバッちゃっていいですか?」という言葉が少々気になったが、まずは魚介類がたくさん入った海鮮サラダ。これがボトルで入れたカベルネにピッタリ合うから面白い。

続いて名物「フォアジャガ」登場! ジャガイモのポワレにフォアグラが載り、ソースが掛けられている。さすが名物と言われるだけあって、その絶妙なハーモニーはしっかり記憶に残った。この時点ですでにボトルはカラ。お次はメルローの一本をオーダー。やっぱりペース速いぞ。

続いて今夜のスペシャリテ。何と丸のまんまの黒トリュフをクリームソースと共にパイで包んで焼き上げた一品だった! カンナで削らないトリュフなんて初めて食べたが、実に香りが豊かで、何とも嬉しい気分にさせてくれる。

気が付けば2本目のボトルもカラ。しょうがないので、今度は飲んだだけお勘定、残りはお店で引き取るという事で3本目に突入! ツマミはチーズ盛り合わせをオーダー。過去から現在、家族から友人へとまだまだ話は尽きないのだった。

・・・・・・・

さあ、OYAJI二人がここまで盛り上がったら後は歌うしかない! 天下の銀座でカラオケボックス突撃~!

我々の青春時代の音楽はビートルズ系の洋楽とフォーク、ニューミュージックである。特にKと最もよく聴いていたのはアリスにビートルズだった。

「ブログに書いてたけど、今でもアリス歌ってるの?」
「当然! あと昭和限定で何でもね」
「実はオレも歌ってるんだ」

やっぱ話が早いわ。ならば今夜は心置きなくアリスと昭和で行こうじゃないの! 若い連中が新しい知らない歌を歌おうモンなら即消しすら辞さないのだが、それはどうもパワハラにあたるらしく、最近では知らない歌が通り過ぎるのをじっとガマンする事もあった。だが今夜はそんなガマンなど微塵も必要ないのだ~!

アリスだけでも「愛の光」「青春時代(←アリスの)」「黒い瞳の少女」「ジョニーの子守唄」「冬の稲妻」「涙の誓い」「さらば青春の時」「秋止符」「チャンピオン」などなど、誰にもジャマされる事なく炸裂するツインボーカルの連続は気持ちE~! 

その後もビートルズはもちろん、たくろう、かぐや姫、グループサウンズ、果てはムード歌謡まで、昭和これでもか~である。最後は「乾杯」でフィナーレ ・・・だったと思う。

これだけ飲んで食べて喋って歌えば、急速注入されたエタノールが身体中をしっかり巡り、今が何時だかの感覚も無くなった。たぶん2時間以上は歌い続けていただろう。単なるカラオケではない、共通の思い出の歌を通した会話(?)ってのもまたいいモンだ。

・・・・・・・

外へ出たらほぼ日付変更線。今夜は18時前から飲み始めたから、ほぼ6時間以上二人で盛り上がっていた事になる。私は地下鉄の最終、Kは横浜の自宅までタクシーとなったが、講演料が入ったと言ってたからまあいいだろ。再会を約してそれぞれ夜の銀座を後にした。

そういえば、我々の中学の担任の先生が今年傘寿を迎える。この機会に長年ご無沙汰だったクラス会を企画してみようかな。心地よい夜風に身を任せながら、旧友とのこんな素敵な再会の場をもっともっと作れたらいいなんて考えていた。


(おしまい)





25年目の邂逅 ~その1

そのキッカケはFaceBookへ届いたひとつの友人申請だった。申請者の名前を一目見た瞬間、私は彼と最後に会った日を思い返すと同時に、反射的に今日までの年月を数えていた。

・・・・・・・

「彼」とは、中学の同級生だったKである。片や常に成績が学年で5本の指に入ろうかというKと、試験範囲ナシの一発勝負で行なわれる実力テストの時だけ、たまにベスト10入りしていた私あたりとでは、そもそもの頭の作りが違っていた。

だが、越境入学同士で家が比較的近かったせいもあって、お互いによく入り浸っては音楽を聴いたりプライベートな話をしたりしていた。特にその頃好きになった同級生にどうやって思いを伝えようかと胸を焦がし、遂には二人で自転車に乗って好きになった彼女の家を探しに行ったり、代わりに手紙を渡してあげよう、なんて事もやった。ま、結局二人ともヘタレで見事に玉砕したけれど。

Kとの付き合いは高校時代にも続いて行く。

成績優秀で内申点も心配のない彼は、学区で一番レベルの高い都立高校へ無事に進学した。一方、日頃の内申点が悪いため入学試験で3科目平均90点以上を取らなければアウトと言われていた私は、国語、英語はクリアしたものの、案の定、嫌いな数学でコケて私立高校へと進んだ。

もはや時効だから書くが、その頃には二人ともしっかり未成年飲酒の常習犯だった。夏休みには木曽路を徒歩で歩く行き当たりばったり旅行などにも出掛けたりした。知らずに南木曽から中津川へのルートを選んでしまい、キツイ登り道ばかりでしんどかったのを良く覚えている。

やがて大学受験が訪れる。私は運よく薬科大学に入学できたが、公立の医学部を志したKは浪人の身となった。その当時、最高峰と呼ばれた駿台予備校の午前部に通いつつ、それでもたまに二人で飲んではストレス解消をしていた。

そしてリベンジの時は来た。合格発表の日はもちろんKと二人で行き、ビビる彼に代わって受験番号の確認をした。雌伏の蛍雪時代が報われ、Kはものの見事に合格していたのだった。これは嬉しかったね~!

私の大学は東京の西のはずれにあり、東の下町にあった実家から毎日2時間かけて東京横断通学をしていた。だから始めのうちこそ地元で家庭教師のアルバイトを始めたものの、クラブ活動とも相俟ってすぐに務まらなくなり、それ以後バイトとも無縁な日々を過ごしていた。

一方でKは医大生という看板を活かし、中学の時に通っていた塾の講師などのバイトにも精を出していた。挙句、二人で飲みに行った居酒屋も、DVDや通信などではない歌詞本を見ながらの8トラカラオケスナックも、結構な頻度でKのゴチにあずかっていた。 …これはどっかで返さにゃならんと今でも思っている。いや、ホント。

その後に一度、最初の会社の時に神奈川へ転勤した私は、横浜の精神科医療施設に勤めていたKの元へ営業社員と同行した事があったが、少しばかり仕事の話をしただけで短い面談は終わっていた。アラサーの頃である。

さらに数年後。すっかりご無沙汰のKと久しぶりに再会したのは、私が企画した地元でのクラス会だった。懐かしい顔が担任の先生を囲んで楽しいひと時を過ごしたが、結局それが彼との最後の顔合わせとなった。

・・・・・・・

それからおよそ25年の歳月を経て、KからのFB友人申請に至るのだが、実は私の会社の製品関係で時折彼の所属をチェックしたりしていた。だがその製品担当も外れたため、追跡作業も放置したままだった。気がつけば私は研修トレーナー、彼は精神病院の院長となっていた。

そして明日。銀座にある彼の行きつけの店で食事、というより飲み会をやる運びとなった。あの日以来、お互いの姿かたちも変わっているだろうか? …少なくとも私は細身のチビではなくなっている(爆)

同窓会に行くと瞬時にタイムマシンに乗ってあの頃に飛べる感覚を覚えるものだが、たった二人の間でもきっとそんな化学反応が起こるだろうと思っている。

それぞれが過ごしてきた日々の尽きせぬ話を肴に、ここは思い切り酔ってみたいね。


(つづく)





お次は四国

やはり研修の連投はキツい。まして旧知の後輩と一緒に飲み、かつしこたま歌えば、翌日は絵に描いたような二日酔いもむべなるかな。

その九州研修連チャンも終わっていったん帰京後、再び午前半休をかまして夕刻の便で四国・高松へ。

高松は瀬戸内海側なので魚介類の宝庫だというイメージがあるが、実は魚介類は外で食べると安くはないという話をよく聞く。これはかつて経験した「高松伝説」で、はからずも証明した通りである。あ、そうそう、その伝説の店はなぜか去年からなくなっていた。

高松の地にここまで何回か訪れてわかった事だが、どの場所でも焼き鳥屋の密度がかなり高い。ちょっと賑やかな盛り場であろうが、それから少し離れた地味な地域であろうが、「焼き鳥」の標榜を掲げた店が目立つのである。

前回、同僚達と訪れた人気店が「鳥長」だった。どのメニューもレベルが高く、地元でも予約を入れないと入れないほどの人気店だというのがよく分かる。だが、唯一と言ってもいい欠点が、膝ナンコツ焼がなかった事である。

そこで今回、目星を付けたのが「ひよりや」である。ただ、この店は4月末から移動したらしく、手にしたYahoo地図では辿り着けず、タクシーで再移動せざるを得なかった。でもそこには「膝ナンコツ焼」があった。それさえあれば言う事なしの私は、直ちに10本オーダーした。

この店の特筆すべきは、テーブルに保温用の炭火が入った網焼きセットが置いてあるという事だ。これにより、焼き物が冷める事を気にせず、ゆっくり食らいつけるのである。また、2人の女性スタッフも明るくいいキャラだ。

さらに生モノには、鳥レバ刺と砂ギモ刺があるではないか! 特にスナギモ刺、すなわちズリ刺は、よほど新鮮でないと食べられないとカミさんも言ってた。ましてやそれが大好物の同僚の喜ぶまい事か!

先ほども書いたが、この高松には両方の店に行く途中ですら、数々の焼き鳥屋が並んでいる。この店も地元民のグループが次々に入って来た。

だから高松では、焼き鳥・鶏料理をメインに据えて、シメを讃岐うどんでいくというのが飲み会の本線ではなかろうかとも思ってしまう。少なくとも我々はそのコースで大満足だった。

さて、そう来れば、もはやこの地で足りないのは、歌が歌えるリーズナブルなスナックである。今回はそこまで探求する余裕がなかった。誰か教えてくれ。





50を目前にして

スキー旅行の鼻先ニンジン作戦が功を奏し、締め切り前日にどうやら息子の宿題は完了したようだ。これで安心して20年ぶりのスキーに連れて行ける。

年賀状をきちんと出していないこちらも悪いと思うが、新年明けてから到着する同級生関係の年賀状が多い。早めに書こうと気に留めてはいたものの、やっぱり押し迫ってからの投函になってしまったのが実情だろう。

かくいう私は、今年も届いた賀状への返信オンリーと堕落し続けているので、他人の事をあれこれ言える資格は全くない。

大学時代のクラブの男子同期生6人のうち、4人が東京近辺にいる。残りの2人は長野県と愛知県に在住している。そろそろ50の大台に乗る年代なので、一度きちんと会う機会を作らねばとも思っている。

折りしも去年、mixiで偶然にも大学のクラブのコミュニティに出会えた事だし、再会のチャンスとタイミングの啓示を受けたような気がしている。

であるから、会の企画は私がやる。これを見たらとにかくメール連絡してくれ。まずはメーリングリストの作成から始めよう。


再びタイムマシンに乗って

ひょんな事から中学の同級生の忘年会に誘われた。場所は25年以上生まれ育った葛飾区新小岩、それも中学の後輩にあたる人がやってる居酒屋で店名を「海人」という。ならば行くしかなかろう。

総武線に乗って「次は~、新小岩~、新小岩~」という、何千回も聞いた車内アナウンスも懐かしく耳にしながら駅に降り立つ。見渡すと、堂々としたラブホテルが真っ先に目に飛び込んできたのには唖然とした。せっかくだからといろいろと迂回しながら歩いてみた。

新小岩と言えば南口のアーケード街(ルミエール商店街と言うそうだ)。まずは右側8軒目の我が家があった場所。今では婦人服のチェーン店になっている。でもそのハス向かいの煎餅屋は今も健在だ。あの頃は今と違って、この商店街によそから出店してくるケースは殆どなく、店主同士も昔からの顔見知りで、その子供らも一緒に育ってきた。道幅8mあるかないかのスペースで、我々子供はローセキ遊びや馬乗り、はては三角ベースまでやっていたのだ。

手前の路地に入ってみれば、いつも出前を取っていた中華屋やユッケジャンクッパを食べに行ってた焼肉屋があったはずだが、案の定すでに今風の居酒屋や風俗店に変わっていた。きれいな表のアーケード街とは全く異なるこの辺りの夜の顔は、絵に描いたような場末だ。いっとき風俗の街と化した新小岩の陰の部分が見えた。

さらに奥地へ歩いて行くと、昔お世話になったボーイスカウト事務所のあった歯科医院がリッパなビルになっていた。天津麺のウマかった中華屋は30年以上経った今も同じ建物で続いていた。角の八百屋も同じようにあった。嬉しい事に、まだまだ古い店や家が結構残っている。

再度アーケード街に戻ってみると、かつてのおもちゃ屋がビルになり、その息子がパブをやってたり、その先の本屋やメガネ屋は昔のままだったり。今で言う「かかりつけ医」だった内科医院は整体院に変わってたり、でも古い金物屋はそのままだったり。

長く続く半円形のアーケードは、さながらタイムトンネルのように見えた。本当に過去に向かって歩いていくような思いを抱きながら、それを心地よく噛みしめるようにゆっくりゆっくり歩いて会場に向かった。

会場の居酒屋は、数100mのアーケード街を抜けた先にあった。そこはもう葛飾区ではなく江戸川区だ。今回参加した同級生十数名は、男も女ももう50歳目前である。でも大多数が地元に根付いているがために、これだけのメンバーがこうして集まって来れる。逆に言えば、それぞれが決して裕福な家庭ではなかったがゆえ、地元に根付かざるを得なかったメリットだと思う。

そこで知った偶然のなせるワザとも言うべき話をひとつ。

よもやま話の最中に、再び逮捕された「ミラーマン」植草一秀氏の話が出た時、そういえば我々の同級生にも同じ苗字のヤツがいて、生徒会長なんかをやってたよな、と何気に私が言った。

すかさず「お前知らなかったのか? ヤツはミラーマンの兄貴なんだぜ」

世の中狭いわ~! ニュースを見てても同級生の事はついぞ思い浮かばなかった鈍感さを恥じた。彼は我々と同じ中学から地域の都立学校群のトップだった両国高校に進学し、そして東大に入ったのである。困った後輩だが、デキは良かったようだ。おまけに会場の居酒屋の主人とは同級生だったそうだ。

その後も話は弾んだ。二次会のカラオケも判で押したように80年代までの歌で占められていた。実に気持ちいい。危うく終電に乗り損ねそうになったが、たまたま同じ地域に住んでいた女性を送りがてら午前1時半に帰宅、タイムマシンから降りた。

大規模な同窓会も大型のタイムマシンに乗るみたいな感じだが、今回のようなこじんまりとした会も、そこが生まれ育った場所であれば、十二分にタイムマシンに乗れるもんだ。その頃当たり前のように住んでいた時には考えもしなかった視野と驚きを感じつつ、四半世紀たった今、泣けるほどの時間旅行を満喫できた夜だった。


心のタイムマシン

昨夜は中学校の同窓会だった。

私の卒業した中学校は越境通学していた江戸川区の公立中学だったので、いつも江戸川区内の施設で行われている。それでも単一年度の卒業生の同窓会は実に9年ぶりで、前回は葛西のホテル、今回は船堀のタワーホールで開かれ、そのどちらの町でも当時を想像できないほど近代化された風景に驚かされた。

当時7クラス、二百数十名いた卒業生のうち今回集まったのは80名ほど。でも今回初めて全クラスの担任と学年主任の先生方が揃った。我々の代の同窓生が生まれた年にこの中学校も開校したと言うから来年で創立50周年だそうだ。どうりで受付係やロビーでたむろしている連中の姿はどっちが先生だかわからないようなOYAJI世代である。でも、それぞれどこかに当時の面影を残しているのが何とも可笑しい。

卒業以来、去年までで12名の同窓生がすでに亡くなっている。約5%の人数というのは高いのか低いのかわからないが、人生50年すら生きられなかったのだからあまりに短い。彼らの名前が発表される度に、あの頃の坊主頭の顔がひとりひとりはっきりと蘇ってきた。悲しい記憶である。

さて、11歳の孫を持つ73歳の先生を筆頭に、皆さん退職された後それぞれボランティアなどの活動をなさっていたのも驚いた。「まだまだ勉強する事が山のようにあるんですよ」とおっしゃる。さすが勉強や学問にも貪欲だった時代の方らしい言葉である。我々の時代は十分な教育環境があって、それが当たり前だった。だから受験以外で勉強する事に決してハングリーじゃないし、学習意欲も低い。思わず考えさせられた言葉だった。

同窓生に区議会議員になったヤツがいて、その選挙活動の一環として同窓会が使われている面があるので参加しないという者もいた。彼や彼を応援している連中が某宗教団体系なので、なおさらイヤだと言う者もいる。だがこの歳まで来るとそういう事情が出てくるのもある意味しょうがないとも思えるし、何より先生方の歳を考えれば、この先元気にお会いできる機会も減ってくる。私が今回出席を決めた理由はそこにある。もとより江戸川区民でもないし。

親の仕事を継いだヤツ、会社を興したヤツ、地元でレストランやパブを経営しているヤツ、あいかわらずサラリーマンのヤツ、そういう連中の中で一番多いのは主婦業に子育てに奮闘してきた普通のオバサン連中である。ほとんどが地元で結婚し、そこに住んでいる。孫が2人もいるオバサンもいた。彼女はフィリピンパブのママでもある。

地元に根付いているゆえ、このような会も開きやすいし集まりやすい。これも下町の公立中学ならではの良さである。我々の時代でも高校へ進学した者が殆どだったが、就職の道に進んだ者も少なからずいた。思えば、中学校までが皆同じ境遇でいられた最後の時だったのだ。だからこそかけがえの無い貴重な時なのだと思う。

校則も厳しかった。校内放送のチャイムが鳴ると、何をしていてもその場で直立不動で聞かねばならない。公共交通機関を使っての外出は、制服着用で親同伴。映画も事前に届出をして親同伴。当時はやったドロップハンドルの自転車に乗りたければ、筋骨隆々の生活指導の先生に腕相撲で勝たなければならなかった。つまりはドロップハンドルを操作するにはそれ程の腕力が要ると学校側が判断したからである。当然、勝った者はおろか挑んだ者さえいなかった。スカートの長さは膝まで、髪は肩に付くまでで、左右に束ねる。…今だったら生徒の人権問題だと騒がれるようなものばかりである。

おかげで卒業後も後遺症が残った。高校生になってもデパートでチャイムが鳴ると思わずその場で気をつけをしてしまうのである。校則違反といえば、初めて同級生と山手線に乗って一周してきたのがバレてビンタを喰らったり、ボウリングに行った連中が職員室に呼び出され、長時間正座の上コンコンと説教されたりと、事件には事欠かなかった。今考えればかわいいモンだが、当時はずいぶんとヘコまされた。

その半面、毎年クラスの歌を作ったり、清掃コンクールでは家庭用漂白剤とタワシを持ち込み、クラス全員で木造校舎の教室と廊下を真っ白に磨きあげたり、壁新聞コンクールで初めて取材写真を使ったりと前向きな情熱も持っていた。全ては学校から始まり学校で終わるような、学校生活が生活の舞台そのものだったと言える。ケンカはあったが陰湿ないじめなどはなかったし、先生方の目もしっかり行き届いていた。

先生方も悪い事をした生徒には手を上げた。あの頃の先生は、生徒にとって確実に恐い面を持った存在だったし、同時に愛情を込めて接してくれた存在でもあった。ある先生がしみじみと言った。「校則は厳しいですが、人生のうちの3年間ぐらいはこういう時期があって良いと思います。必ず成長しますから」近年になって金八先生が注目される遥か前から、我々の周りはそんな先生ばかりだった。当たり前のようにプロであり聖職者だった。

ちょっと薄らいだ記憶の備忘録を繕いつつ、全てが笑い話となったそれぞれの思い出を懐かしむ。30数年の時を経て、その当時のメンバーがそこに実在する同じ空気の中で…。



同窓会は心のタイムマシンである。



連休中に悲劇が!

GW9連休も終わり、少し位は仕事してもいいかなという気持ちを抱えつつ出社。PCを立ち上げ、メールチェックに取り掛かったその時、その知らせが私を襲った。

5日、北穂高岳を縦走中の男女5人パーティの一人の女性が滑落し、不幸にも死亡した。その女性こそ誰あろう「ザル子6号」に私が認定した女性だったのだ! ザル子と言うだけあって日本酒が好きなくせに、久々の飲み会だと日本酒で酔いつぶれ、恒例のビートルズナイトでギタリストに一目惚れしてご祝儀を奮発、タフと元気が取り得の会社の仲間だったのだ!

夏休みや大型連休などになると、ニュースを見れば決まって海や山の行楽事故が報じられる。今まで見たニュースには友人・知人は一人も出てこなかった。その度に国内でさえもこんなに人がたくさんいるんだから無理も無いなと妙に納得していた。今回の事故も報道されたらしいのだが、どういう訳か私は見ていなかった。

彼女は山行が趣味で、この日も学生時代の仲間と作っていた山岳クラブのイベントだったとの事。山の頂上に連なる稜線は幅が狭く、雪のひさし(雪庇)を踏み抜いても突風に煽られても人一人があっという間に落ちてしまう。この季節は冬季登山よりも登りやすい半面、天気が良いと雪も緩む。

彼女は昨年父親を亡くしている。残された母親からすれば彼女が最後の希望の光だったに違いない。その彼女が親よりも早く33歳の若さで帰らぬ人となってしまった。悲しみを通り越して・・・ただただ無念だ。

もうあの溌剌とした笑顔も、ザル子の名に恥じぬ豪快な飲みっぷりも見る事が出来ない。せめて今夜は仲間内で静かに飲んで送ろうと思う。そして来月のビートルズナイトでは賑やかに追悼会をしてやりたいと思っている。

穂高は彼女が一番好きな山だった事が、せめてもの救いかもしれない。



Long time no seeだけど・・・。

16日のDiaryでHbA1cについて書いたら、ひょんなヤツから電話があった。彼は大学の同級生で同じクラブ出身、現在は地元の愛知県で調剤薬局に勤めている。10年以上ぶりの電話は、まさに「Long time no see!」そのものであった。

年賀状に書いたここのURLでこのサイトを見ていたそうで、やけに弾んだ声で独立しようと思っていると言う。聞けば、血糖値やHbA1cの低下に効果があるというインド産の健康食品の販売代理店(個人)の組織を作る仕事をするらしい。すでにアメリカでは医薬品として販売されているとも言う。

ここで何かイヤな感じがした。昨今幾度となく問題視されているマルチ商法が脳裏によぎった。彼にいくつか質問してみたところ、彼の回答からやはり構造的にはマルチ商法である可能性が出てきた。

マルチ商法(マルチレベルマーケティング)は、物品を短期に効率よく流通させるシステムとしては利点があるが、そこに「多額の収入が得られるビジネス」という面が強調されると一変してくる。そうなると自分自身が販売をするよりも販売する人間を集めた方が効率がいいので、友人知人などに声をかけ人集めに走る。時にそれは多くの友人知人を失うほどエスカレートする。

たとえ組織化に成功しても、その組織はごく少数のリッチとそこに収入をもたらす大多数のプアの集団が形成されるのである。プアはリッチと関わり合ううちに頑張れば自分もそうなれるという一種の洗脳状態に陥り、妙に感情がハイになり、本来必要ないはずの在庫の買い込みや借金も厭わなくなり、いずれ破綻の道をたどる。一見ノーリスクに思えるマルチ商法とはそんな危険性を含むシステムなのである。

今のところ扱い商品はこれだけらしいのでそこまで心配する必要はないと思うが、逆に単品では到底リッチにはなれないだろう。それでも将来的に大勢のプアを作り出し、自分だけがリッチになる事を夢見ているのなら、友人として断固反論せねばなるまい。

収入システム以外の件について、このDiaryを見ている彼に訊きたい。

①通常の栄養補給食品よりも対象者は限定されるが、それはどうやって見つけ、コンタクトをとるのか?
 
②ネット検索したらすでにHP等を立ち上げて宣伝活動をしている人が数十人いるようだが、待っているだけでそんなに注文が来るのか?

③そのWebsiteには「血糖・HbA1c低下」や「糖尿病に効果あり」という記載があるが、これは明らかに薬事法違反だが?

④この分野の専門家とは言えない医師に使用経験を発表させたりする事は健康食品業界ではよくあるが、不十分な試験デザインでの結果はエビデンス(証拠、根拠)とは言えないのでは?

⑤そもそもそんなに効果があるのなら、せめて「医薬品」の承認を取るべきだし、画期的な糖尿病治療薬として製薬企業が本気で開発してしかるべきだと思うが?

ヒマな時でいいから回答くださいませ。期待はしませんが。



ザル子4号の退職

6月末をもって愛すべきザル子4号が退職する。で、昨日はザル子およびザル子サポーターによる送別会を開催した。場所はザル子審査会でおなじみの自称地中海料理居酒屋。参加人数は延べ10人といったところだったか。

ヘタな男よりも酒には強く、でもそのキャラはそこらの女性よりはるかに魅力的な「いいをんな」を敬意を込めて「ザル子」と認定してきた。彼女はその第4号であった。

でもその「いいをんな」は、会社の仕事では苦労が多かった。

専門性の高い仕事であるにもかかわらず、上司や同僚からキツい仕事を平気で丸投げされ、それなのに業績評価は決して満足のいくものは得られなかった。福利厚生の面でも戸籍上世帯主であるにもかかわらず、なぜか女性という理由で男性世帯主と同等の待遇を受けられない。それでも彼女はこらえにこらえて頑張ってきた。

そしてついに限界が来た。

不本意ながら退職の道を選んでしまった、いや選ばざるを得なくなってしまったのだ。今後の事はまだ決まっていないそうだ。昔、彼女が秘書兼マネージャーをしていた、誰もが知る今最も輝いている宝塚出身の女優の所に帰って、もう一度やろうかななどとも言っていた。彼女とはとてもウマが合い、今でもオファーがある仲である。

午前3時。カラオケボックスに「乾杯」の大合唱が響き、名残りを惜しみつつも送別会は解散した。近々の飲み会での再会を約束して。

国内トップ5を目指すとのたまうこの会社は、また一人の優秀で愛すべき人財を見殺しにした。



3連チャンの忘年会

今週もなんとか乗り切れそうな感じだ。昨日までの忘年会3連チャンをこなし、いささか肝臓がくたびれてはいるものの、今日の休日が救いとなった。

3連チャン目の昨日はPOOBの忘年会。新メンバーの参加も期待されたが、我々の年代はちょっとムリするとすぐ壊れてしまう。結局新メンバーの参加もおあずけとなり、前回とおんなじようなメンバーで始まった。

日本酒と焼酎飲み放題コースだったが、誰も焼酎には見向きもせず久保田、黒龍、浦霞、麒麟山、高清水といった選べる5種類の冷酒を空けていく。最初からビールの乾杯すら無く、あっという間にモトが取れる4杯が終わる。3時間の持ち時間なのだが、もはや何杯飲んだかわからなくなり、ツブれる前に時間を残してお目当てのカラオケボックスに移動した。

ところが最近のカラオケボックスはなぜか混んでいる。この日も40分待ちと言われたが、OYAJIたちはひるまない。ダラダラとしゃべりつつその時を待った。あとはお決まりの60年代から80年代までの歌謡曲、フォークのオンパレード。気が付けば終電はなし。またタクでの午前様となった。

これじゃ体にいいわきゃないよ~。



焼香名古屋行

今日、45歳の若さで逝ってしまったPOOBメンバーしばやんの御焼香に名古屋に行ってきた。

通夜、告別式に参列できなかった5名が自宅を訪ね、奥様とひとときの思い出話を語り合った。祭壇の遺影は癌治療から何度も雄々しく蘇って我々の前に現れた時の笑顔そのままだった。改めてご冥福を祈りたい。

彼は最後の入院中のベッドでもHPに書いてきたDiary「Positive Life」の原稿をWordに書いていて、文字色も付けてあり、後はコピペで更新できるまでになっていた。HP上では最後のUp Dateは7月下旬だったが、亡くなる10月までの分がそこにあった。それを彼の会社貸与のノートPCからなんとか自宅のPCに移し、PCの苦手な奥様の目にやっとそれが見られるまでになった。

POOBメンバーの4名が駅で合流し、名古屋駅周辺に戻り、お清め兼夕食の飲み会に突入。都ホテル跡をトヨタが再構築したビルの一角のしゃれた和風居酒屋がその会場となった。刺身や焼魚はいいが、ラーメンサラダやらエビフリャー、みそ串カツといった名古屋ならではのメニューが出る頃には、OYAJIの一部(私としげドンです)はビールから日本酒に移り、都合7合を飲み干していた。

16時半過ぎに始まった飲み会も大いに盛り上がったのだが、買っていた新幹線に乗り遅れぬよう、いそいそと地下道を駅に向かうだけの意識はまだ残っていた。次回3月頃のしばやんお墓参り兼知多半島フグ三昧オフの約束をしてそれぞれ別れた。

ひとつ気になった事があった。焼香の後、名古屋駅へ戻る道中、私は冠婚葬祭用に3年前に買った靴を履いてきたのだが、その右足のかかと部分の外側のゴムが裂け、名古屋駅に着く頃にはウラが剥がれ落ちてしまった。右足がブヨブヨした感触になったが、歩行にはさほど差し支えなく東京まで帰って来たが、今思うとしばやん、君が引き留めたのかな。

久しぶりじゃないか、もっとゆっくりしていけよ、と。




しばやんへ

「そんなに死にたきゃ、生きてから死ね!」と昨日書いた。

書いた後にBBS巡回をしたら、我らがPOOBメンバーしばやんさんの訃報に触れた。なんという悲しい偶然だろう。

彼は名古屋在住の45歳。HPを持ち、プジョー206オーナーという縁でPOOB名古屋メンバーとなった。当初から、彼は癌と戦っていた。多発性だったため、身体のあちこちに治療が必要で、入退院を繰り返すという日々だった。だが彼はその都度病気との戦いに勝ち続けてきた。原発巣のオペ、骨・関節転移のオペ、化学療法、放射線療法、歩行訓練、リハビリを続けつつ、オフ会に何度も206を運転して参加してきた。

そんな彼を我々は敬意を込めて「ターミネーター」と呼んだ。

今月初めのPOOB信州温泉オフも、彼は車椅子訓練中でありながら最後まで参加の意志を持っていた。結局参加は叶わなかったが、すでに彼は次回参加への強い意志をBBSに書き込んでいた。それが彼からの最後のメッセージとなってしまった。

彼と最後に会ったのは去年だったか。私が名古屋へ行った時、入院中だったにもかかわらず、なんと病院を抜け出し206を運転して現れたのだ。一同びっくり。そして彼お気に入りのカフェでプチオフと相成った。昼下がりの楽しいひとときだった。

彼には奥さんと耳だれスコティッシュの愛猫がいる。そんな家族を残したまま逝くのはさぞや辛かった事だろう。いや、きっと彼はそんな事は思いもしていなかったに違いない。元気になる事しかイメージしていなかったろうし、そうなるためにつらい治療もリハビリも乗り越えてきたのだ。全身生きる意欲のかたまりだったに違いない。

ふいに「涙そうそう」の詞がよぎった。きっと今ごろ、彼は彼の場所から我々に得意の笑顔で微笑みかけているんだろうな。

世にはこんなに一生懸命戦いながら生を勝ち取ってきた人がいる。それでもたった一度の敗北が、死を意味してしまった。

生きている事のすばらしさ、ありがたさをわかろうともせず、あるいは思考を停止し安易に死に走る者達よ。お前達の命と彼の命は同じ命なのか? 同じ価値がある命なのか? そうだとしたら、その答えを示せるのはもうお前達しかいないんだぞ。 


ザル子総会

昨日は怒涛のザル子総会だった。現在までに認定したザル子は6号までいる。ザル子5号は体調不良のためドタキャンだったが、残りの5人は無事参加した。ザル子5人にザル子サポーター4人の総勢9人による徹底的な飲み会は、ビールに続きあっという間に焼酎の一升瓶が空いて始まった。

寿退社あり、未亡人ありで、お祝いと励ましという多目的なテーマを持った会であったが、このメンバーが集まる事はもうない。しかも9人のうち男性はたった3人というハーレム状態である。お互いの歳の話が出る頃には、2本目の一升瓶が空いた。さらに日本酒をむさぼる者まで出てきた。さすがザル子である。午後7時から始まった総会は10時まで続き、生き残った女性5人男性2人はお決まりのカラオケボックスへ。

よくもまあこんなに歌えるもんだという位、次から次へと熱唱。なんせカラオケ代だけで@7000円なんて前代未聞である。何気に時計を見てたまげた。お開きはなんと午前3時!

今朝は目が覚めたら9時を回っていた。休むのも気が引けたので10時出社。焼酎メインだったせいか、完全な二日酔いではないものの、頭がボ~っとして眠い。

出社して何人かのザル子にも会った。当然何事もなかったかのように、はつらつとして元気いっぱい。・・・私はもう家に帰りたい。



ザル子

新潟は大洪水で死者まで出ているというのに、東京では暑い日が続いている。窓を開け放して寝ているが、どうしても風が止む深夜に蒸し暑さで目が覚める。カミさんは平気でも私は耐えられん。

世の中にはお酒のとても強い女性がいるもんで。

ウチの会社にも「ウワバミ」「底なし」と恐れられる女性が結構いるらしい。そこで、そんなステキな女性達に名誉を与えるべく、今年から「全日本ザル子認定協会」を立ち上げた。

会社近くの安い洋風居酒屋(安くなけりゃ大変な事になる!)で、ウワサに上った女性を招き、その飲みっぷりとキャラクターにより「ザル子」の称号を認定するというイベントである。

すでに「ザル子5号」まで認定されているが、久々に6号候補が現れ、本日審査会を開く事になった。候補の彼女の得意技は日本酒という事なので、今日は一升瓶との戦いとなるだろう。ま、明日から3連休だし、それもいいだろう。本日はザル子4号も特別ゲスト参加の予定だ。

豪快な飲みっぷり、楽しいキャラ、翌日に残らない体力と、三拍子揃ったザル子たちは皆さん魅力的である。そして、部署を越えての交流は「いいをんな」発掘にも最適である。



通夜

昨夜、通夜に行ってきたのだが、昨今の斎場の変わり様に驚いた。

1Fに4家族分のブース(幅4m、奥行き10m程度)みたいなスペースが並び、それぞれの中に祭壇があり、遺族が左右にイスに座っている。

我々は、まず記帳受付に並び、ホテルのチェックインカードのようなものに住所氏名等を記入し、引換券をもらう。目の前に焼香場所があるのに、再び焼香用の列に並ぶ。弔問客が100人以上来ていたのはそのブースだけだったので、すべて終わるまで30分はかかった。

同じものが2Fにもあり、建物の1F・2Fでこの流れ作業が行われていた。まさにベルトコンベアー状態である。精進落としの場所もない。都会の斎場は、もはやこんな状況なのか。せめて通夜の一夜は一家族のみで過させてあげることもできないのだろうか。

読経の中、彼女は終始ご主人の棺とその上に飾られた遺影の方を向いたまま、ついぞ焼香客の方を振り返ることはなかった。

その姿が一番哀しかった。



訃報

今朝、訃報のメールが届いた。

6月2日のDiaryで記した社員のご主人が今月3日に亡くなった。42歳の若さだった。末期食道癌、おそらくメタ(転移)もあったのだろう。あの時は、一日も早く日本の権威のDrに切ってもらうために私も動き、そして快く引き受けていただけたと聞いていた。

残念ながら日本一のメッサーをもってしても、手遅れの状態だったのかもしれない。それほど若年代の癌は進行が早い。まして、ご主人はレストランバーを経営しており、そのせいか定期検診もろくにしていなかったようで、相当具合が悪くなってからやっと近くの個人病院へ検査入院に至ったという経緯がある。入院後も店が心配で、病院を抜け出した事もあったとか。

「明日の朝、受診できるようになりました」という彼女からの電話が最後だった。その日から彼女は会社を休んでいる。

きっとこの上ない絶望と日々闘っていたに違いない。




梅雨入りではなかった

昨日とは一転して晴天。天気予報でも梅雨入りはまだとのこと。

ウチの社員のご主人(42歳)に食道癌が。来週にも最終検査結果が出、オペのため転院の予定。今朝、執刀医についての相談を受けた。彼女とは所属を越えた飲み仲間であるので、悲しませてはならない。早速アクション開始。

商売柄、こういう時は強い。候補Dr情報はメール一本で瞬時に集まり、会社や担当者とのコンタクトの強さも把握できる。たちまち日本の最高権威の一人のDrが絞り込まれ、ダイレクトにコンタクトできるよう手配。たぶん、うまくいくだろう。

食道癌でオペが必要な場合、重要なのは一にも二にもDrの腕である。「白い巨塔」の財前五郎をにいかに見つけ出し、個人的にアクセスできるかが結果を左右する。それが可能なのもこの業界ならではのメリットである。

それにしても42歳というのはいかにも若い。食道癌のオペ後の5年生存率はまだ60%に届かない。

最高の結果を望むばかりである。



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Chaie<チャイ>

Author:Chaie<チャイ>
最初のWebsite開設は2001年のクリスマスのことでした。その後、紆余曲折を経てこのBlogへ引越して今に至ります。これからも日々の記録とさまざまなテーマについての意見や感想などを屁理屈コラム日記風に綴りたいと思ってます。

生まれも育ちも東京の下町です。東京タワーやチキンラーメンと同い年なので結構生きてますが、せめて精神年齢くらいは若いつもりでいたいなと。

自称「日本酒のソムリエ」のつもりでしたが、検査値との闘いの末に禁酒に踏み切り、それ以来かなり普通の生活を送ってます。

下手なアコギとウクレレを弾いて昭和を歌ったり、カラオケでも昭和を歌ったりしてます。最近は40年来の憧れだったMartin D-28Mと80年代製のKamaka HF2に囲まれて幸せです。

もうひとつの大好きは欧州車! プジョー乗りのサークル「POOB(プジョー太平洋OYAJIベルト)」の関東地区元締めなるものをやってます。

実は、足掛け10年乗って来た愛車「プジョー206XS」のミッショントラブルにより箱換えを余儀なくされ、ここでも紆余曲折を経てゲルマン製装甲車のような「BMW120iCoupe」を新たな愛車としました。

それをキッカケにBMWオーナーズクラブの「Club BMW 1(CB1)」「BMWメタボ白髪連合会」などのメンバーにもなりました。

某企業のプロフェッショナルな研修職人を目指して定期的に全国を飛び回ってましたが、ステージを替えて今後は頼れる薬局のOYAJIを目指したいと思います。

愛と情熱を持ってはっきりモノが言える「熱きガンコジジイ」になりたい!

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