二度目のメルトダウンが始まる ~その2

~その1から続く

さて、S男とのツイッター上でのやり取りを全文掲載しよう。ただし、時系列的に同時進行した部分はセパレートし、コメントの字句も読みやすいように一部分改訂している事を予めお断わりする。長文御免

まずはC子のやり取りの最中に横入りして来たS男のこのツイートから始まった。

S男「単純な話で、事の重大さに言葉も重くなったという危機感から来る自然な事。僕らが今直面しているのは、人間の生死や国単位の存亡に関わる事。その事に対して言葉遣いの部分を持ち出し、あ~でもない言ってる場合くぁ~???」

いきなり初対面(対面はしていないが)の相手に対してこんな言葉遣いをして来るヤツ(プロフィールによれば40代らしい)に、庭山議員の言葉遣いへの私のツイートを批判されるとは …と思いつつも、

私「何度も言ってますが、彼女は言葉(言論)を武器とする政治家であって、公人です。だから言葉を選んで発信すべきと言っただけですよ。主張の本質にケチをつけてるワケじゃありません。それと、あなたも言葉を選ぶべきですね。それがマナーというモンですよ」

そうしたら、早くも論旨そのものではなく、枝葉末節な部分への指摘が。

S男「政治家は言葉が武器なんですか? 僕には意味がわかりません」
私「それはあなたの認識の問題でしょう。周りの常識人にお尋ね下さい」

S男「それと、僕の言葉のどこがいけなかったでしょうか? 具体的に指摘して下さい」
私「『あ~でもない言ってる場合くぁ~???』」

一見論戦慣れしている連中の常套句、「具体的に指摘」をしてやったのにS男はスルー。私ゃ、お前さんのいつもの相手とはちょっとばかり違うからね。

S男「今常識人の方何人かに聞いてみました。『言葉っ尻ばかり整える政治家ほど信用できん』『それで何度も騙されてきた』だと」
私「それはその政治家の(言葉よりも)資質の問題」

おいおいS男、40過ぎにもなってこのレベルはチト低過ぎやせんか?

S男「政治家の武器は志と行動力です。そして伝える、という部分では言葉遣いよりも『ハート』『表現力』です。言葉が武器じゃないとは言いませんが、野田さんは言葉遣いの最強ウェポンです。が、少なくとも野田さんより庭山さんの方が信頼できます」
私「言葉の他にも武器があるのは言わずもがなです。野田氏は(言いたい)内容はともかく、(彼の使った)言葉そのもので傷ついた人はいない。庭山氏は(言いたい)内容はともかく、(彼女の使った)言葉そのもので傷ついた人がいた、という事です。信頼うんぬんはまた別の評価です」

野田氏が言葉遣いの最強ウェポン? …ま、いいや。ところで、どんな根拠があって『庭山さんを信頼できる』と言い切っちゃえるんだ?

S男「『野田氏は内容はともかく、言葉そのもので傷ついた人はいない』。なぜあなたにそんな事が言い切れるのですか? 日本国民はもちろん、今世界中の多くの人々が福一事故当事国日本のトップの発言に心を痛めているのは周知の事実だと思いますが?」
私「それは言葉と言うより、内容の問題です。何度も言いますが、論旨を混同しないで下さいな」

論点が「発言内容」と「使った言葉」との間でコンタミしているというのがどうにも理解できないらしい。

S男「『信頼うんぬんはまた別の評価』、最前線で被爆や汚染、避難を始めとしたさまざまな被害や恐怖・不安に晒されている国民の声を、そういった場でしか発言できない人間が代表して訴えてくれた事への信頼です。別の話では全くありません。あるわけがない」
私「私の論旨は『訴えかた』、そのために用いた表現方法である『言葉』です。さらに申せば、私は庭山氏の言葉から傷ついた人がいたのは容易に想像できますし、それゆえ(彼女に)信頼を感じる事はできませんでした」

庭山氏はいつから『そういった場でしか発言できない人間』だったんだ? …これもま、いいや。

S男「内容と言葉は切り離せません。あなたこそ、庭山さんの言葉がどこから来ているものなのかを踏まえて話していないのではないですか?」
私「ある人から発せられた言葉の由来や背景までをいちいち踏まえる事は出来ませんし、(それを他人に)求めてはいけません。発せられた言葉の中で判断するのが普通です。 だから、特に公人の言葉は重いのです」

彼女の言葉がどこから来ているのか? って唐突に言われてもねぇ。私、庭山ウォッチャーじゃないし。

S男「何度も言います。根本的にあなたは向き合っている問題そのものか、危機意識の度合いが大きくかけ離れてませんか? 言葉の使い方の評価は人それぞれあるにしても、言葉の由来や背景を把握しないでどう評価できると言うんですか?」
私「ならば彼女はもっと言葉を尽くして伝える必要がありましたね。もちろん言葉を選んで。そうすれば余計な批判を生まずに内容を理解する人が増えていたのに」

それが言葉を武器に自身の思いを伝えるプロである政治家の義務だろが。ところがS男の反論はまたもダッチロール。

S男「言葉の使い方はやり直しがききますが、生命にはやり直しはききません。脱原発はハナっから弱小少数派ですからめげずに理解者が増えるよう頑張りますよ」

反原発、脱原発派は決して弱小少数なんかじゃないでしょ? …まあ、これで収束するかなと思いきや、

S男「あなたは家が大火事で、生命が危うく今すぐどうにかして逃げなきゃいけない…って時に、何だその言葉遣いは! 何だその格好は! ちゃんと正装して逃げなさい!って言って、火の中で家族に着替えを迫っているようなもんですよ」

あらら。ついに出ました極論による論点ずらし攻撃! 言っても分からんなら実例を示してやるとするか。

私「そんな極論はやめましょうよ。『放射能汚染が確認された地域からの献血は内部被曝の恐れがあるので、赤十字は輸血の前に検査を行なうべき』と言えば済んだ話。(それなら彼女の主張に)私も同意です」

これでやっとフィニッシュか? いやいや、まだ続く。今度は3連発!

S男「それから庭山さん本人に直訴するならともかく、一弱者的個人の方がプライベートの貴重な時間を使って賢明にこの国を守ろうとしている事に対してのあなたの言動の方が、言葉遣いの問題ではなく、まさに国家レベルの危機を感じます」

何のこっちゃ?

S男「庭山さんはリスクを背負ってる立場で発言し、そのリスクを受けたのですよ。あなたはリスクを背負って発言してますか?」

いちいちリスクを背負わにゃイカンの?

S男「反原発を訴える、庭山さんを擁護する事にもリスクが生じてるはずですが、そのリスクを背負って頑張っている一個人の方に対するあなたの発言が許せなく、つい僕もいきなり横から口を挟んでしまいました。その意味では失礼しました。が、間違った事を言ったつもりはありません」

最初は庭山氏の使った言葉への批判から始まったはずの議論なのに、最後は私への人間批判になっていた。言われるまでもなく、アンタの言ってる事は決して間違っちゃいないよ、TPOをわきまえていればね。

このままでは埒が明かんし、こちらも会議や食事の合間を縫ってレスしているのでいささか疲れた。よし、ここらで終止符を打ったれ!

私「そういう(一般の)個人に対して攻撃したつもりはないのはTL(タイムライン)を見ていただければ明らかです。庭山氏は公人であるゆえ、言葉を選んで主張すべきと言っただけです。もとより、それ以上の他意はありません。ま、ここはこれで終わりにしましょう」

やれやれ、結局S男もC子と同じような一途な純粋君だったか。

それでもツイッターでここまで長くやり合ったのは初めてだし、お互いの着地点は異なったものの、私はS男のフォロワーとなった。本人からは「フォローありがとうございます。でも…なぜに?」という驚きのレスも来たが、これもまた縁のうちと思うからである。


おしまい





二度目のメルトダウンが始まる ~その1

新人研修のサポート役で生涯初となる宮崎県の地を踏んでいる頃、東京では野田首相が福井県知事に押された格好で大飯原発再稼働の表明を行なっていた。

この強引な決定に、電力会社からの献金を受けている議員、利権の甘い汁を吸っている経済界、同じく原発マネーでウホウホの一部地元民や首長ら「原発利権ジャンキー」以外の多くの国民は怒った。そりゃそうだ。こんな事、普通の判断能力さえ持っていれば結論は一つしかない。

福島第一の事故の原因究明を目的として発足する第三者委員会(原子力規制庁)の報告を待つ事もなく、免震棟やベントフィルターの設置もなく防潮堤も不十分、おまけに真下を活断層や破砕帯が走る土地に立っている原発を安全性が確認されたと再稼働に踏み切ろうとしているのである。

「私の責任で決断する」だの「万一の際は私が責任を負う」だのの首相のセリフが全く説得力を持たないのは明々白々だ。そもそも首相は「責任」をどう取るつもりなのか? 辞任ごときなんぞ論外だ。どう考えても取りきれるワケがないじゃないか!

それまでの間、あれほど再稼働に反対の姿勢をアピールしていた橋下大阪市長も、まるで出来レースであったかのように再稼働容認へ腰砕け発言をするし、「関西電力や国、あるいは企業からずいぶんと警告され、本当に停電になったらどうするんだとかなり脅かされました。『お前は責任が取れるのか』」と嘉田滋賀県知事が驚くべき事を明かした。これで関西広域連合は一気に崩され、原発再稼働を容認する共同声明を出したのだった。

連日、全国から集まった千人単位の反対派が首相官邸や関係省庁前などでデモを行ない、ブログやツイッターなどでも盛んに反原発、脱原発の声が飛び交っている。 …なぜか原発推進、容認派の声は、反論も含めてほとんど挙がらないが。

新聞もこぞって異議を唱えた。…と思いきや、毎日は翌日の社説にもコラムにも一切取り上げずにスルー。読売、産経に至っては野田首相の決断を支持する社説を掲載する始末。

TVもヒドい。フジのスーパーニュースでは、再稼働賛成が49%、反対が43%という他のすべての世論調査とは真逆の結果を報道し、安藤優子が「野田総理が言ったように、まさに国論を二分しています」「国は安全対策は万全でないと言っています。ですから再稼働は安全対策も進めながら行なう必要があります」とのたまった。

・・・・・・・

そんな中、ここのところ原発関連のフォローが増えている私のツイッター上でちょっとした議論が巻き起こった。

発端は、群馬県桐生市議会議員の庭山由紀氏のこのツイートだった。

「献血の車が止まっているけど、放射能汚染地域に住む人の血って、ほしいですか? 」

この「汚染地域に住む人の血って、ほしいですか?」という過激な投げかけに対し、彼女の所属する桐生市議会は、今回の件とこれまでの彼女の言動も踏まえて、除名処分のための懲罰動議の提出を決定したのだった。これら一連の事態にツイッター上では賛否の声が激しく飛び交ったのだった。

私は考えはこうである。

庭山氏の言いたかった内容は理解できるが、それを表現するために用いた言葉は明らかに人を傷付けるものであり、公人としての品性品格を疑わせた。これは民主主義国家の中で、言葉を武器とする政治家としては甚だ不適当であり、自ら武器を放棄したに等しい。とはいえ、議会による除名処分もいささかやり過ぎであり、彼女からの謝罪があれば取り消すべきである。

ところが、庭山氏は謝罪するどころか、ツイッターで市議会の一人一人を名指しで批判、またまた公人としての品性品格を疑わせる言動に出たのである。本人のツイートに対するレスにも皮肉交じりの毒舌的なツイートを返す始末。もっとも、レスした方も過激な言い回しのツイートが多かったけど。

・・・・・・・

そんなやり取りを見ていたら、あるツイートが目に入った。

ツイートした本人を仮にC子としよう。C子は日頃から反原発のツイートが多かった女性で、私が何気にフォローしていた一人だった。目にしたツイートは、庭山氏を批判するツイートに対して、彼女の本質を理解していない等と異議を唱えた内容だった。

私は「問題は庭山氏が主張する内容ではなく、用いた言葉です」と前述の考えをレスした。ここから私と何度かのやり取りをしたのだが、彼女からは「事が重要なら普通の言葉で伝わるなんて理想論が出てくるのが信じられない。ひょっとしてあなたは十代?」「今の日本では彼女の表現が過激とは全然思いません。この方が通じる人もいます」と全く噛み合わなかった。

実はC子、何が気に入らなかったのか、予告もなくフォロワーである私を突然ブロックしたのである。ツイッター上のブロックとは、相手からのレス拒否はもちろん、自分の現在から過去のツイートを一切非公開にするという、相手には失礼この上ない行為だが、自分にとってはお気に入りのフォロワーだけをチョイスできるという便利機能である。

な~んだ、結局C子も自分に賛同する者だけに囲まれたい純粋無垢人間だったのか、と少々がっかりしたものだった。ある運動や思想に一心不乱に邁進している人間ほど、批判的な意見に拒否反応を起こすと聞いていたが、まさかここで体験するとは思わなんだ。

このやり取りの中で横入りして来た一人の男性がいた。仮にS男としよう。期せずして、ここからC子以上のツイート議論が展開される事になったのである。

次回、そのやりとりを記録のために掲載する。何せ私にとっては初めてのツイート合戦という記念すべき機会だったから。


~というワケで、その2へ続く





ツイッターの快楽と憂鬱

最近、思わず「おいおい!」とツッコミを入れたくなる事がある。

その最たるものがツイッターである。元来、私はコイツがどうにも苦手なのである。

ツイッターはツイート呼ばれる、自分の言いたい事を自由に書き込める掲示板のようなスタイルをとっている。また、自分だけでなく他の人のツイートをフォローする事でその人の意見が見られるので面白い。それぞれの間で意見交換も可能だ。

ところがこのツイッターというヤツ、mixiやFacebookと似ているようでそうではない。ツイッターの表示形式はタイムラインと言って、自分のツイートやフォローしている人のツイートが次々と流れては下の方に消えて行ってしまう。その度合いはフォローしている人数にもよるが、わずかの時間のうちに100個以上のツイートが並ぶのも珍しくない。そうなると追いかけて読んで行くだけでも大変だ。その場で「いいね!」も出来ない。

ツイッターを始めた頃は、せいぜい仲間内の手軽な通信手段くらいだったが、最近は違って来ている。

世間では今、原発再稼動問題が一番熱い。ツイッターでも様々な意見が飛び交っているが、そこには再稼動推進派と慎重派を含む反対派が連日議論を展開している。中にはマスコミが報道して来ない事実も含まれているので、公正な判断材料の一つとして貴重な場合も多いので興味は尽きない。

・・・・・・・

そんな事もあって現在私は150人近い人をフォローしているのだが、最近、ある事に気がついた。

私は原発再稼動には反対である。そのためフォローしているのは反対派の人が多いのだが、そこに引用されて来る推進派の意見もいろいろな意味で興味深い。ほとんどがいわゆる原子力村から大なり小なりの利権を得ているんじゃないかと思わせる御用学者や文化人、ジャーナリストなのだが、その理屈が常識的に「?」と思わされる事が多いのである。冷静な研究者であるはずの人が感情的に煽っているような意見も散見される始末。

なので、そんな推進派のトンデモ意見vs反対派からの論破などが面白くて、推進派の人へのフォローも増えて行ったワケである。・・・トンデモ意見による自虐的(ドM)な気分も楽しみたかったのもあったけど。

ある日、あまりに偏向に過ぎると思われる意見に反論の返信したところ、その何人かの人のツイートが表示されなくなった。何だかおかしいなと思っていたら、その人たちが私のフォローリストからも消えていた事に気付いた。つまり、私は相手から一方的にブロックされたというワケだ。

これは私に限らず、数多くのフォロワーを有している反対派の人も食らっているようだ。要は、自分の意見を批判する輩はシャットアウトしてしまおうという、哀しくも可笑しいヒステリーの表れなのだろう。

まあ、どーでもいいけど、私なぞのチンケなフォロワーにいちいち目くじら立てずに、せめてもうちょっと私の自虐ゲームにお付き合いしていただいてもいいじゃないの、ここじゃアンタらの方がメジャーな存在なんでしょうから。

・・・・・・・

もう一つの話題は、橋下大阪市長とMBSの斉加という女性記者(兼ディレクター?)とのぶら下がり取材のやりとりである。

その大もとは、教育委員会が全教員に職務命令として出した「国歌の起立・斉唱」。そのマネジメント業務の遂行として、大阪府立和泉高校の中原徹校長は卒業式において教諭の君が代斉唱の有無を口元を見てチェックした。これがやり過ぎではないかという議論である。

これを報道で知った時には、校長=管理者=教育委員会側という図式が私もすぐさま浮かび、コイツは(コイツも)トンデモ校長、やり過ぎ校長なんだというイメージを抱いた。その後ネットなどを通じて、それが恣意的な報道による恐るべき誤解だという事が明らかになったのだった。

中原校長は、全教員に予め職務命令を伝えた上で、それでも口を動かしていない(ように見えた)教員3名に対して、式の雰囲気を壊さないようにと式が終わった後に別室へ呼び出し、それをただした。歌っていたと答えた教員にはそれ以上の追求はせず、歌っていなかったと認めた1名だけを教育委員会へ報告したというのが報道されなかった事実である。

彼のブログ「最年少校長 中原徹のブログ」にもそこに至る考えが記されている。
読売新聞の記事について
国歌斉唱問題から学ぶこと

これを読んでも明らかだが、中原校長の深謀遠慮の上に行なった行為は、やり過ぎどころか立派なマネジメントであるというのが橋下市長も認めるところである。

ぶら下がり取材の様子を公開したYou Tubeでは、斉加記者はニュース特番のための取材として意見を訊くという形を取りながら、あわよくば橋下市長の過激な発言を引き出そうとしていた。今回の事例を憲法の保証する思想信条の自由と対比させ、その独断的な考え方を批判しようという意図がミエミエだった。

挙句、今回の職務命令は誰から誰に向けて出されたものかの橋本市長からの逆ツッコミを受けて答えに窮したり、そもそも橋下市長側は府条例を作っただけで、その遂行には教育委員会に権限がある事などの基礎的な事実認識も持たないまま、言ってみれば彼女自身のイデオロギーによるウラの意図があったという事が満天下に知られるところとなった。

斉加記者が最後に発した「今日はこれくらいにしておきます」の捨てゼリフは明かに負け犬の遠吠え。吉本新喜劇の池乃めだかじゃあるまいし。

これもネットによる情報公開がもたらした功績と言えよう。

ところがここにもトンデモ意見が飛び交うのだった。曰く「歌わない事も個人の自由だ」だの「上司に従って歌う先生、歌わない先生、それを調整する先生という多様性が大事だ」「君が代斉唱を子供に強要するべきではない」などなど・・・。

これに対して橋本市長は憤る。「条例はそもそも個人の權利や自由を侵害するものではない。職務命令も公務員の教員に向けて出されたもので、私学の教員には出されていない。もちろん生徒にも強要するものではない。公務員として職務命令に従うのは当然の義務である」

私もツイッター上で交わされるトンデモ意見に見るに見兼ねて異論を唱えたが、ここでもブロックされた。中には「オレはニートだ。ニートなめんじゃねぇ!」といった脅迫まがいの捨てゼリフを吐かれた事もあった。もちろんツイッター上の文字として。ニートと知らずに反論した私が愚かだったんだろうけど。

・・・・・・・

四十九日はとっくに過ぎ、むしろ百か日に近くなった昨日、近親者20人が集まって親父の納骨が行われた。

親父の遺骨をできるだけ家に置いておきたいというお袋の気持ちを尊重し、我々は納骨の日にちにはこだわらなかったが、それでいいと思っている。

この日を境に親父は、子供の頃に亡くなった大好きな母親の遺骨と共に眠る事ができた。それを思えば、それはそれで親父には幸せの始まりなのかもしれない。

この上もなく爽やかな上天気だった。






温故知新シリーズ 20(最終回)

<タフネス&スキル ~生き抜く力~ >


これまで何度か言ったり書いたりしてきた事だが、昨今の世の情勢を見るにつけ、もう一度きちんと書いておきたいと強く感じた。あまりにも陰惨な事件が多すぎると思わないだろうか? 

人が人を実に簡単に亡き者にする、あるいは自分を簡単に捨ててしまう。立ち向かい戦う事を放棄し、守りはおろか逃げに入っている者も多い。その理由をさまざまな人が述べているが、私はつまるところ自身の精神の在りようではないのかと考えている。若い世代を中心に「精神の弱さ」が露呈してきているという事である。

精神の強さには二通りある。

一つ目はここ一番で「がんばる力」である。

人生には何度もここ一番の時がある。それは受験勉強かもしれないし、発表会や競技大会かもしれない。あるいは日常の仕事の中とか恋愛の場面でも出くわすかもしれない。いずれにせよ、自分にとって最高の結果を生み出したい時が必ずあるという事だ。

そのためには、そうなるようがんばるしかない。求める結果が大きければ大きいほど、それに見合った努力が要求されるだろう。しかし、それは最短距離の努力を指すのではない。たとえ効率が悪かろうが、目指す目標に向かってそれをやり続けるという事が重要なのだ。そしてそれは目標が達成されようとされまいと、自身にとって必ず良い方向の成果をもたらすだろう。別名「あきらめない力」とも言う。

二つ目は「こらえる力」である。

凡庸な人間にとって欲望とは限りないものだ。やりたいもの、手に入れたいものが限りなくあるだろう。だがすべてが今すぐかなう訳はない。だから自分を抑え、我慢する。それをバネにがんばる。けれども、どんなにがんばってもいつも必ず思ったような結果がついてくるとは限らないのが世の常だ。十分な努力をしても、プレッシャーに負けて力を出し切れない時だってある。思わぬ大失敗に挫折を味わう時だってある。理不尽ないじめや暴力に悩まされる時もあるだろう。

そんな時の対処法は「こらえる事」と「受け流す事」である。

ぐっと耐える事も必要だが、適度に受け流して後に引きずらないよう気持ちを切り替える事も大切だ。降りかかる重圧や苦しさをその都度真正面から受け続けてしまえば、いつかは心が耐え切れなくなり折れてしまう。折れた心に「憎悪」という感情が発露されれば他人に、「絶望」という感情が発露されれば自分に牙をむく。行動に出してしまえばニュースを賑わす事になる。だから人はこれらマイナス感情の発露を起こさせないよう「こらえる」のであり、「受け流す」のである。

がんばる事もこらえる事もさほど求められず、その必要性を理解しないまま成長すると、来たるべき時に社会の一員となる自覚も持てずにひたすら自分に甘く、周囲に甘える人間が出来上がってしまう。

彼らは明確な目標を持ったり保証の無い地道な努力をする事は好まないから、誰かがいつかお膳立てをしてくれるのを待ち続けている。それでも言い訳だけは用意しており、曰く「本当にやりたい事を見つけている」とか「就職で安易な妥協はしたくない」などと一応格好をつけてみる。だが時間は待ってはくれない。かくして人生の大切な成長期を惰性と妥協の日々で食い尽くしてしまう。

どうにもならないと気づいた時には、もうとっくにどうにもならない時なのである。

私は思う。親も教育者もリッパな学歴よりもタフな精神力の育成に心を砕くべきだ。

昔とは異なり、現代はモノが溢れ、金さえあれば何でも手に入る世の中である事は否定しない。人間関係も近隣や仲間同士でさえ距離を置いたり、損得や好き嫌いのみが人と接する尺度であったりとますます淡白なものとなっている。この状況下でいかにがんばる事とこらえる事を教え、体験させられるかは、もはや関わる大人のセンスの問題だろう。本人も含め双方がその必要性を真剣に考えず放棄するならば、いずれこの問題はさらに深刻に表在化してくるに違いない。

さて、その精神力を持って目標を達成するのに必要なものが技能、すなわちスキルである。現代の標準とすれば、それは「PCスキル」と「英会話」ではなかろうか。

PCスキルはワープロとデータ処理(表計算)程度が出来ればいい。プログラミングやシステム等の専門知識は、それを職業としない限り必要ないし、メールやインターネットは後からいくらでも追いつく。PCは所詮道具なのだから、ビジネスツールとして普通に使えればいいのだ。高度なワザは、それが必要になった時に学ぶ方がよく覚えられるものだから、その時が来たらすればいい。

英会話は通常の会話が支障なく出来る程度が目標となろう。ビジネス会話やディスカッションは難易度が高く、ちょっとやそっとでは習得できないレベルなので無理はしないでいい。巷では会話以外の総合英語力の指標としてTOEICの点数が話題になるが、高得点を取ってもろくに話せない人も多いという。

であるならば、コミュニケーションツールとして活用できる会話の方がより実用的ではないだろうか。外資系に活力のある日本経済の現状では、外資系企業はある意味いい仕事をするための主要な選択肢ともなっている。それに限らずとも、さまざまな場面で外国の人を相手にする機会は増えている。ならば会話力は必須だろう。

この2つのスキルを身につけていれば大抵の仕事で困らないだろうし、そんな魅力的な即戦力の人材を求める企業は多い。今のところ、このスキルは自己アピールには十分訴求力のあるスキルである事は間違いない。相手から選ばれる側だったものから、こちらが相手を選ぶ側に回る事だって可能である。

企画力、折衝力、プレゼン能力等のより専門的なスキルは、必要であれば仕事をこなしていきながら習得すればいいのだ。そういった業務能力向上の育成は企業側の責任なのだから。PCと英会話は、世の荒海を渡っていくためのスキルとしては必要十分な武器だと思う。

繰り返すが、精神力とスキルは車の両輪である。しかしながらスキルの習得より重要で、かつ時期を誤ってはならないのが精神力の育成だと思う。


  人生に「負け」はない。あるとすれば「失敗」である。
        だからこそ、人はそこから立ち上がれるのだ。

  人生に「勝ち」はない。あるとすれば「到達点」である。
        だからこそ、人はそこから更なる高みが見えるのだ。


(2004年12月 記)

・・・・・・・

旧ホームページで綴って来た20編のエッセイモドキの最後がこれだった。

ここに書いた事は、今の自分に対する戒めでもあり、私の子供達に対しても言って来た事でもある。もっとも、一人の男として、また子供達の親としてどれだけ実践し、その背中を見せて来れたかは甚だ疑問ではあるが。

わが国では、年間の自殺者数3万人以上という不名誉な記録を10年以上も続けている。また、自殺に及ばずとも格差社会に取り残され、戦意喪失に至った引きこもりやニートが只ならぬ数で発生している。社会から取り残されたり落ちていく人数が増える事があっても、ちっとも減らないのは明らかに異常事態である。

「為せばなる。為せぬは人の為さぬなりけり」などという叱咤激励の言葉などは、経済不況による大企業の求人数減少と大学数過多による大学生の増加との需給バランス崩壊の前にはいかにも無力であろう。仮にも最高学府を卒業した人材を受け入れる社会の器の大きさも、彼らがチャレンジできる社会の余地の大きさも、時代が進むにつれ確実に減少して来ている。

この事は、私の親父の時代と比べて私自身も感じていたから、そんなに間違ってはいない感覚だと思う。要は時代の流れの伴って可能性が狭まってばかりいるから、当然そこから弾き出される人数も増えるというわけである。もはや現代は「常に何かに飢えている」時代ではない。物に恵まれ、そうでない人でも簡単に飢え死する環境ではないから、若者に何が何でもというモチベーションが希薄だという側面もある。

そういう意味では、現代の若者が充実して生きて行くという事はかなり厳しい事だと思う。

だからこそ「精神力」で心を折らずに「スキル」を発揮するという生き方を貫く事が求められるのではなかろうか。ま、実りある人生を全うするには、いつの時代でも相応に厳しい戦いがあるという事は確かなようである。





温故知新シリーズ 19

<吟醸酒ふたたび ~二人の美女~ >

 
かれこれ3年は経っただろうか。転勤や異動を重ねた末、私は久しぶりにこの店の暖簾をくぐった。

ここは埼玉県の大宮、繁華街の喧騒を逃れた場所にある小さな居酒屋である。かつて、私に日本酒に対するカルチャーショックを植えつけ、そして幾多のすばらしい吟醸酒との出会いをもたらしてくれたこの店の出来事から話を始めたい。同時に一年以上もご無沙汰をしてしまったこの「My OPINION and JUDGEMENT」更新の緒としたい。

開店にはまだ少し早い時間だった。駅からの道を入れ替りの激しい店々の景色を楽しみながら、極力ゆっくり歩いてきたつもりだったが、やっぱり早く着き過ぎたか。まあいい、かまわず入っちまおう、知らない仲じゃなし。挨拶の声に応えてくれたマスターの声に導かれるように入った店内は、変わらぬなごやかな雰囲気だ。

靴を脱いで、あがりカウンターの隅に陣取り、まずはビールを注文しながら近況報告。ふと見ると、ボードに貼ってあるツマミの質に変化が。以前は純然たる「酒の肴」が多かったのだが、今では「おかず」や「食事」になりそうな品が増えていた。元々この店のツマミの味は折り紙つきだ。飲みながら食べるタイプの私には、うれしい変化だった。

ビールが半分消えたところでさっそく日本酒へ。ここではあえて銘柄を指定しない。私の飲んできた銘柄や好みは、すでに十分把握されているし、メニューに載せていない意外な美酒との出会いを楽しみたいからである。とはいえ昨今、吟醸酒も焼酎もブームとやらの峠は過ぎたとの事。最近では銘柄を絞り込んで、そのほとんどをメニューとして出しているという。

ならば、以前のようなサプライズは期待できないのか。ここでは、かの「●●寒梅」が単なる「ぬる燗酒」の立場しか与えられていない。それも本命の酒を仕入れるためのセット販売の相手となっているらしい。私が以前憂いていた通りの有様となってしまっていた。

さて、ここからが本題である。3年ぶりに帰った故郷で、私は二人の美女と遭遇する。彼女らは今までに見た事がないタイプの女性だった。そしてその出会いは、驚きと共に心から満たされた一夜となったのは言うまでもなかろう。さっそく彼女らを紹介したい。

「愛宕の松 ひより」 宮城
現段階で少量生産の新開発米「ひより」を使った純米吟醸酒で、ラベルに掛合わせの図(血統書みたいなもの)が印刷されている。見れば亀の尾や山田錦なども祖先に持つ。好評なら県内限定でさらに扱う酒蔵も増やす予定だとか。口に含むとサラッとしてきれいではあるが、取り立てて特徴はないという印象だ。いくら新開発といっても、やはり昨今流行の淡麗路線は外せないのか、と一瞬思った。直後、のどを伝う味覚に驚愕した! 香りとコクが一気に花開き、それはそれは芳醇な広がりを示したのだ。まるでモデルのようにスラッとした、スタイルだけが取り柄だと思った女性が、実は味わい深い魅力を持った大人の美女だったという驚きだ。口からのどの間にこんな変わり身を見せた酒は記憶にない。もしこの美女が醸造技術よりも、この米のせいで生まれたとすれば、「ひより」は近い将来大ヒット間違いなしと言っておく。私はすでに虜になってしまった。

「喜正 大吟醸」 東京
次に出会った美女は、何と地元東京都あきる野市出身である。「きっしょう」と読む。米どころでもない東京の酒は過去にも飲んだが、だからと言ってまずい酒ではなかったという印象だった。でも所詮それ止まりだったのも事実である。いくらマスターのマイブーム銘柄だろうが今回も期待薄、のはずだった。そんな思いで口に含んだ私は、またも驚愕させられる事になる。美貌・スタイル・知性のすべての良さがたちまち開花し、そのどれもが出過ぎる事なく、絶妙のバランスを持った非の打ちどころのない美女が出現したのだ。酒の世界では都会出身に美女はいないという思い込みを見事に打破してくれた逸品である。この大吟醸は品評会専用で、二桁程度しか生産していないらしい。原料米は山田錦の35%。すでに品評会では幾度か金賞を受賞しているというが、その時代はまだまだ続くと見た。隠し事もせず、こうもはっきりと魅力を示されると、安心して愛し続けられそうである。


(2004年11月 記)

・・・・・・・

あれからさらに6年の時が流れた。

いつぞや同僚から聞いた話によると、去年だか今年だかは分からないが店を畳んだらしい。その話を聞いて、非常に残念な思いと同時に、これまで私の日本酒歴をレベルアップさせてくれた事に感謝した。

あくまで上質の吟醸酒に拘るあまり、「●●寒梅」「八●山」など、世間でもてはやされたがために質を落とした銘柄には目もくれず、逆に「十四代」「黒龍」など、この店で知った銘柄が後に一大ブームを起こしたという事もあった。それだけこの店のマスター(私は大将と呼んでいた)は、とても脱サラとは思えない慧眼の士だった。

その後、この店が埼玉県の大宮というロケーションもあってご無沙汰が続いたが、それでも折を見て訪ねるようにはしていた。ところがここ数年、私より2つ3つ年上であれほどフレンドリーだった大将とのリズムが合わなくなって来たのである。それは私だけでなく、他の客に対するあしらいもどこか上っ滑りしているような感じだった。

今から思えば経営的にもかなり逼迫し焦っていたのかもしれない。店の方も日本酒オタクの常連で賑っていた頃の面影も薄く、名コンビである彼の奥さんも持ち前の笑顔と元気に少し翳りが見えていたような。大将は私よりも私のカミさんのファンを自称していたので、一昨年だったか久しぶりにカミさんを連れて行ったのだが、その時ですら昔のようなリアクションがさほど見られなかった。

彼の目に適った上質の吟醸酒を決して法外なプレミアを乗せずに適正価格で提供する。酒の肴も味付けに拘り、納得の品を出す。だから、時に有名銘柄のみを求めて来る客を断ったりもして、ホンモノの日本酒を理解してくれる客を大事にしていたはずだった。

「思い」と「商い」の両立とは、かように難しいのだろうか。






温故知新シリーズ 18

<地獄の合宿奮闘記 ③ ~ Day by Day, and Graduation ~ >

 
次に我々が苦労したのは「Introduction Speech 」という、皆の面前で topics を話す training である。

これは事前に7つのtheme(My hometown、My family、My job、My daily routine など)について、1分間用の原稿を各自が用意して来る。私も翻訳softwareに助けてもらいながらも用意はして来た。これを講師がcheckし、正しいsentenceになったものを翌日我々がspeechする。すなわち暗記するのである。最初は4つのthemeを、次に残り3つのthemeをまとめてこなしていく。

これもきつい。4 theme分を一夜で覚えるのはいくらやさしいsentenceで書いていても至難のワザである。我々levelの原稿は、せいぜい1 themeで10数個程度のsentenceである。しかし、上級levelの人はもっと多く、もっと難しい単語や表現を使う。夜は23:00までに消灯なので、翌朝早めに起きて続ける。早い者は3:00頃に起きていたという。それでもやってみるモンで、本番では皆ほとんどOKだった。人間の能力は偉大である・・・。

最終日はこれら全てのthemeを再編集して、なんと5分間のspeechを全員の前で行う。どんなに端折ってもreport用紙2枚分はある。それでも一度は覚えた文章、なんとかなりそうなものだが、topicの変わり目が難しい。つい記憶が途切れる。私は、とりあえずあらすじを日本語で理解し、topic毎のkeywordsを頭に叩き込んだ。同時に言いなれていない熟語も繰り返し反復した。

最終日、5分間speechの順番を決めるクジで、なんと私は20人の受講者の一番最後となった。覚えたものを早くしゃべり終えてしまえば、後は高見の見物。no stress の楽しいひとときが待っているというのに・・・。ま、これも自分の運命だったのだろう。緊張した割には、受け狙いに挿入したjokeもそこそこ受け、原稿の内容もすべて言えた上に、最後の番ゆえのad libで、勝手に謝辞まで付け加えてspeechできたのである。これはluckyだった。

  "We are given a lot of affections more than adovice from you.
   Thank you our teachers, you're the most greatest teachers!"

このほか、natural speedではほとんど聴き取れなかった「Listening Training」、そのscenarioを題材とした「Correct Reading」、講師達の演技力抜群の「Role Play」、キメ細かな指導の「Pronunciation(発音) Training」、受講者が自由にtopicを持ち寄って話す「Conversation Training」などなど、盛りだくさんのcontentsであった。晴れた日にはoutdoor activityでkick baseball、雨の日には屋内でfruit basketと、しっかり身体も動かした。その直後には、あの「Question Training」が待ち構えているのだが、皆楽しそうに汗をかいていた。

最後の晩は打ち上げpartyを兼ねた夕食だった。昼間のgameに負けた我々のgroupは、英語の歌を歌う罰gameがあり、うろ覚えだった歌詞を必死に思い出して「Country Roads」を熱唱した。講師は、当たり前だがnative pronunciationでシブい「Stand By Me」を歌いだす。歌あり、語りあり、とてもいい時間がみんなの間に流れてゆく・・・。

同じ釜の飯を食った仲間とはこういうものなのだろう。受講者全員はもちろんのこと、特に我がTeam Turtleのfriendshipは実に素晴らしかった。もはやドジでノロマな亀などどこにもいない。もう二度と会うことも無いかもしれない仲間たち。情熱と愛情いっぱいの講師たち、Jonathan、Kevin、Jeff、そしてTheo。

たった7日の日々が、もしかしたら一生の宝物にさえなったと感じたのは私だけではなかったはずだ。終了ceremonyで必死に涙をこらえていたのも、きっと私だけではなかったはずだ・・・。


(2003年9月 記)

・・・・・・・

これにて一週間の合宿は終わった。

どんな事でも熱中した時間を共有すればリッパな戦友である。我々は、文字通り一期一会のメンバーだったようで、この日以来一度も再会を果たす事なく今日まで来てしまった。解散後、国内に残った者もいるが、一躍海外へと渡った者もいる。きっとそれぞれがそれぞれの人生のステージで、この時の思い出を胸に抱きつつ戦い続けている事だろう。

いつかどこかで逢える機会があれば、あれからそれぞれが8年の歳月を刻んだ顔を持ち寄って、酒でも酌み交わしたいと思っている。

「Long time no see ! What's up?」なんちって。





温故知新シリーズ 17

<地獄の合宿奮闘記 ② ~ Qestion Training ~ >

 
このtraining campの最大の売り物は「Question Training」と呼ばれる、quick response training である。

native speakerの講師がstopwatch 片手に比較的簡単なphraseのquestionを大声で早口に言ってくる。言ってくるというより怒鳴ってくると言った方が正しい。瞬時に大声で「Yes,~」、「No,~」と決められた回答を full sentence で返す。まごつこうものなら 「Quicker!(早く!)」、声が小さくなると 「Louder!(大声で!)」 とツッコまれる。「a」や「the」、動詞の変化、単数複数の間違いにも瞬時に声が飛ぶ。これが最低1人1分間は続き、1lesson 40分間に4種の異なる answer variation で回答する。講師からの質問も内容がどんどん変化する「Times up!」の声に思わず机に倒れ込む。これが他のlessonを挟んで1日3回実施される。まさに地獄の特訓。

たかだか一番やさしい「Is this your notebook.? 」というphraseでさえ、講師から早口で言われ、瞬時に「Yes, this is my notebook.」や「No, this isn't my notebook.」と返したり、さらには講師の言った答えになるよう、逆にこちらから質問形として返すことなど、聴き取るだけでも大変で、完全に答える事は中級者でも難しいだろう。日を追って、現在形、過去形、進行形、完了形など10数種類のvariationでこれが行われる。常にすばやく大声で…。

こんなlessonはここの他にはまずお目にかかれないと断言する。なぜならば、このlessonには、答える我々以上に講師に莫大なenergyが要求されるからである。事実、ここの講師は皆20代後半から30代前半で、毎晩身体を鍛えているほどだ。駅前留学や他の合宿のsalaried workerの講師あたりではやろうとも思わないだろうし、体力的にも不可能である。

相手を恐れない度胸、頭の中でいちいち日本語に翻訳する悪癖矯正、英語的思考力そして聴力を養う上でこれ以上のtrainingはない。講師がfull of beam(エネルギッシュ)であるほど盛り上がる。こちらも机から身を乗り出し、講師とblow to blow, nose to nose, splash to splashでの攻防である。私は汗だくになって、左手に towel を握りしめ、右手で机を叩きながら応戦した。ある時は講師の思いやり(?)で最大3分間続いた事もあった。

初日のlevel check testでlow levelのD class となった我々5人(Team Turtle : named from Stewardess Story)は「声だけは意地でも負けてたまるか!」 の合言葉のもと、彼らが過去に経験した中で一番大声のclassだったと見事言わしめた。私の声は4日目に潰れたが、替りに2人の講師の声も潰した。我々は次第に英語を「音」として捕らえ「音」で考え、「音」に反応できるようになっていった。それでも7日間では、かなりの進歩はあったものの、ついに完全に返答できるには至らなかった。

このtrainingを受けていて気がついたが、我々が闘っている相手は、実は講師ではない。英語を中学校以来大学受験まで勉強して来て、これ位はできるはずだという自分のprideと闘っているのである。だから出来ないと悔しくてたまらない。自分が許せないのだ。事実、他のclassには涙している者もいたという。

この経験は貴重である。一度見事に敗れ、失うものが無くなれば、人はさらに強くなる。もとより講師にとっては、我々が間違う事なんて当たり前だと思っているし、間違いにはひとつひとつきちんとadviceをくれる。我々にぶつけて来る情熱とは裏腹に、彼らのまなざしは優しさに満ちている。私はそこに、彼らのadvice以上の大きな愛情を感じた。

もしもあなたが英会話上達のbreakthroughが欲しいのなら、私は迷わずこのtraining campをお勧めする。

(③へ続く)


(2003年9月 記)

・・・・・・・

このクエスチョン・トレーニングには燃えた。

決して難しい質問を食らうわけではないのだが、その代わりほぼ条件反射的に省略のないフル・センテンスでの回答が求められる。しかも大声で。英語を理屈ではなく音の感覚として捉えるのが上達のために必須であるとの考え方によるものだった。今でも最もチャレンジングで外人相手に臆する事をなくすためには最も効果的なトレーニングだと思っている。

夏の富士山麓の合宿所は、それなりに自然を感じられる環境だったが、夜ともなると虫の大群は飛んで来るわ、玄関から洗面所あたりにはゴキブリが列を成して行進するわで、ある意味こっちの方が地獄だった。それでも集団生活だったからまだガマンも出来たが、大のゴキブリ嫌いの私一人だったらとっくに逃げ出していただろう苛酷な環境でもあった。

・・・それから2年後に、都内でのワンデイ・レッスン企画に参加して、またしてもJonathanからクエスチョン・トレーニングの洗礼を浴びる事になろうとは夢にも思っていなかった。

・・・その時のエントリ→「地獄のトレーニングふたたび





温故知新シリーズ 16

<地獄の合宿奮闘記 ① ~ Prologue ~ >

 
そもそも英会話の習得には必要性を感じていなかった。いざとなればBroken English & Body Englishで十分通じると思っていたし、実際いくたびかの海外旅行でもほとんど問題はなかった。ましてやお金を払って習うなど、物好きの所業そのものだとさえ思っていた。

そして十余年。勤めている会社は確かに外資系なのだが、日常業務で英会話が特別必要なわけでもない。大学時代に英会話を習得した者やせっせと語学学校に駅前留学している者もいたが、「ごくろうさま」 程度にしか見ていなかった。社内の外国人は社長をはじめ日本語が話せる人が多いし、会議等もすべて日本語である。

ある日、本国から一人の研修担当社員が来た。Training capabilityを我々にlectureするために来日したらしい。当然通訳付きのlectureで、全く不自由はなかった。終了後の食事兼懇親会では、英会話ができる人が彼と会話し、ほとんど頷いているだけだった私も、時々はそれに混ざったりしていた。

その時、私は感じた。例えば海外旅行等で何かを言いたくて、考えた上で自分から発する言葉であれば、ある程度自分のpaceで言える。でも、会話として相手が発する言葉に対応するには、それでは遅すぎる。この時も、joke好きな彼に全く対応できない自分がそこにいた。私だってjokeは大好きである。しかし、英語で言えない。どう言っていいかもわからない。そもそも彼の言葉自体がうまく聴き取れないのだ。

後日、せめて簡単なphraseだけでも覚えれば、ちょっとは気の利いた言葉が言えるのではと思い立ち、得意の大型書店通いの際、簡単phrase集のCD Bookを購入し、通勤の行き帰りに聴くようにしてみた。普段なら興味の無いことに対しては飽きっぽい私が、不思議なことにちっとも飽きない。逆にますます興味が沸いてきたではないか! その理由は今もって自分でもわからないが、とりあえずここに英会話習得のひとつのきっかけが訪れた事だけは確かであった。

こうなったら私は早い。ダラダラと駅前留学しても、決して期待する効果は挙がらない。同僚を見ていてそう確信していた私は、習得には短期決戦、自分を追い込むのみと決めた。そしてInternetで「英会話」と「合宿」とで検索して出て来たのが、今回参加した「英会話地獄合宿」ならぬ「High Speed English」である。

資料には、5日間、7日間、13日間のcourseがあったが、費用・日程の関係から7日間courseを選んだ。場所は富士宮市の山の中、自前の研修所。1週間外出厳禁。日本語厳禁。PC、携帯、TV、新聞ももちろん厳禁。居ながらにして24時間海外留学環境である。これしかない! そう直感した私はpressureを感じながらも思い切って参加を決意した。

「ま、避暑を兼ねての旅だと思えばいいや!」 と。

(②へ続く)


(2003年9月 記)

・・・・・・・

2003年9月に書いたこのエッセイから「ですます体」から「言い切り体」へ文体が変わった。とは言え、いくら英会話に熱を上げていたからと言って、英単語織り交ぜのこんな文章、読み難いったらありゃしない。

それはともかく、帰省してきた息子のT予備校のVTR教材受講のため、目下自宅PCを占領中。それに連日の暑さも手伝ってエントリを書くエネルギーも衰退気味。

よって、もう7年も昔になるが、一度は燃えた「地獄の合宿奮闘記」3部作をホームページからブログへのエントリ移行も兼ねてアップする事にしたので、よろしく。




温故知新シリーズ 15

<日本酒考 ② ~おいおい、その酒どこの酒?~ >


清酒が造られるオンシーズンは、秋口から翌年の春先です。すなわち、通常1年間で売られる清酒は、この時期に生産された量となるわけです。ところが、良く考えてみてください。特に大手メーカーのものは、全国の非常に多くの酒屋や飲食店に置いてあり、頻繁に見る機会があります。不思議だと思いませんか?

大手の酒造メーカーがどんなに大きな工場を持っていたとしても、とても全国津々浦々にまで供給できる量を自社生産できるわけがありませんよね? でも、壮絶な競争で得たシェアを維持拡大してゆかねばなりません。自社で賄いきれない場合、通常の工業製品等でしたらどうしますか? そう、下請けに依頼しますよね。それが、なんと清酒の世界でも存在するのです! 

これを 「桶買い」 と言います。自社生産が需要に追いつかない場合、あるいは安定供給のために、全国の中小酒造会社の醸造桶(今はタンク)ごと買い上げるのです! 緊急時の対策と言うより、生産確保のために継続的に契約している場合がほとんどです。工業製品等は、部品さえ同じであれば生産地がどこであっても同じ製品ができるでしょう。しかし、清酒は生き物です。産地が違えば味も香りも異なるものです。元来下請けなど無理な製品なのです。そこで酒造会社は考えました。

1つ目は、自社品とのブレンドです。桶買い清酒と一定比率でブレンドすれば、ある程度味の均一化が図れます。ブレンドするということは、味の低下に直結するものではありませんが、全国で作られた桶買い清酒は、たとえ大手メーカーが製造方法を指示したとしても、それぞれ産地による違いは出ます。当然、味の均一性には限界がありますし、この時点で 「○○の銘酒」 とはもはや言えません。しいて言えば、出生地不詳の挙動不審酒でしょう。

2つ目は、味の調整です。ここで登場するのは、三増酒でもおなじみの化学調味料と糖類や有機酸類です。これらを駆使して、自社ブランドと同じ味になるよう仕上げるのです。という事は、もともとの自社ブランド品も似たような製法で作られているということでしょう。これでは合成飲料の世界そのものです。場合によっては、ブレンドと味の調整を同時進行させる事もあります。

さらに、異臭や雑味を取り除き、いわゆる淡麗にするために多量の活性炭素を使用したり、余分な水を加えたりもします。名酒即ち水の如しではなく、ただの水っぽい酒なのですが、一時の淡麓ブームの時には大モテでした。辛口ブームの時は、アルコールの添加量を増やし、いたずらに辛口を謳った酒がはやったりしました。また、吟醸酒と言いながら粗雑な造りをし、後からその香り(濃縮液)を混ぜ込んだりもします。こんな酒では百薬の長ならず、百毒の塊かもしれません。

これが大手酒造メーカーだけでしたら、我々にも選択の余地があるのですが、なんと有名地酒の幻と言われた銘柄の酒造会社ですら行われていたのです! ウマイ地酒というイメージと名前が先行し、需要が激増した結果、当然生産が追いつかなくなります。本来は、だからこそ 「幻」 のはずなんですが、知名度の高くなった今は引く手あまた、通常の蔵出し価格の何倍もの高値で売れますし、この好機を逃す手はないと考えたのでしょうか。我々の間の評価では、一気に駄酒に転げ落ちて行きました。信用失墜のツケは意外と大きいと思います。

このような関門をかいくぐって、本当の本物のウマイ酒にたどり着くためには、どうすれば良いのでしょう? 

先ずは清酒を選ぶ際は、最低限排除すべき条件の酒は当然排除しましょう。あとは何事もそうですが、経験の量を増やすのみです。たくさんの清酒を飲むうちに自然と舌が鋭敏に研ぎ澄まされ、ひとつひとつ味が記憶されてゆきます。ある程度蓄積されたその時、振り返ってみてまた飲みたいと思えた清酒こそ、マイ・ベストチョイスであると自信を持ってください。


(2003年7月 記)

・・・・・・・

初めての連作エッセイで取り上げたのが、自称「日本酒のソムリエ」というくらい好きな吟醸酒に関するテーマだった。

ところが、今でも吟醸酒に代表される清酒が最も好きな酒に変わりはないのだが、近年、めっきり飲む機会が減ってしまった。40代中盤あたりから、飲み会などで吟醸酒といえども5合以上飲んだ翌日は、必ずと言っていいほど酒が残り、ひどい時は二日酔い状態になってしまうのだ。

こんな事は、あまり品質のよろしくない酒に限って起こると思っていたのだが、40代後半あたりからそれは自分の歳のせいだと悟った。だから今は、よっぽどいい刺身でもない限り、とりあえずビールの後は躊躇なく焼酎ロックへシフトする。そういう酒飲みは私だけではないらしく、外で飲む吟醸酒はあまり売れないようで、かなりコストパフォーマンスが悪くなっている。特に3人以上で飲む時は、焼酎のボトルを注文した方が圧倒的にリーズナブルである。

吟醸酒や清酒の今を語ると、結局いつもこんなグチともつかぬ話になるのは残念だ。でも時々は、主だった銘柄の味の記憶のブラッシュアップのために飲んでいる。地方の酒蔵に行った時などは、お土産として買って帰る事もある。しかしながら、4年前にタバコを止めてから家でも飲むようになったものの、もっぱら晩酌の友はネット購入した焼酎の一升瓶だ。

というわけで、このエッセイに書いた内容が7年経った今でもアリなのかは定かではない。けれども飲み手に感動を与えてくれ、称賛に値する吟醸酒が今もって存在しているのは動かぬ事実である。それとの出会いを心待ちにしている私も。まだまだ枯れてしまうわけにはいかないじゃないか。







温故知新シリーズ 14

<日本酒考 ① ~だから日本酒は嫌われる~ >

 
飲み会の席などで、乾杯のビールの後などに日本酒を勧めると、男性であっても敬遠されたという事を、最近に限らずよく経験します。理由はそれぞれあるとは思いますが、おおかたのところでは、日本酒はベタベタとして後味がまずいとか悪酔いしそうだからという理由ではないでしょうか。その結果、日本酒に代わって焼酎やサワーの類いが好まれるというのは、日本酒の文化を持つ日本人としていささか複雑な思いがします。

外国の文化人も芸術品と認めるほどの日本酒が、一方でどうして嫌われるのでしょうか? 

かねがね考えていた私の結論は、やはりその味にあるのではないかという事です。酒飲みであれば、一度や二度は日本酒を飲んだ経験はお持ちでしょう。その時の印象を思い出してください。たぶんあまり良い印象は持たなかったと思います。特に小遣いの少ない学生時代に飲んだ安酒ほど、痛い思いをしているのではないでしょうか?

日本酒によってひどい目に会えば、今度はそれがトラウマになり、あれだけは飲むまいという事になってしまいます。それを重々承知の上で、ここでひとつの疑問を投げかけてみたいと思います。あなたがその時に飲んだ日本酒は、そもそも 「日本酒」 だったのでしょうか? 

一般に完成品の量は原料の量によって決まります。でも日本酒の場合は、それが一定ではありません。1の原料から1の酒ができる(純米酒の場合、精白米1Kgから約1.8Lの酒ができる)のは当然ですが、モノによっては1の原料から3の酒が出来上がるのです(実際には約6Lできる)。これを 「三倍増醸酒」、略して三増酒と言います。簡単に言えば、水増し製造酒です。量を増やすためにサトウキビの絞りカスを蒸留したアルコールにブドウ糖、水あめなどの糖類、さらに化学調味料などを混ぜたものを加えた酒の事で、本来の原料である米と米麹から作った酒(純米酒)の三倍以上の生産量となります。

三増酒のルーツは戦中戦後の物資不足であるとされますが、現在でもリッパに(!)製造されているのです。しかもその添加量に制限が無いため、ついつい大量に使用されます。米の発酵によるアルコールではない合成アルコール、米の甘味ではない水あめの甘味、米のうまみではない化学調味料のうまみが入った酒が、本当の 「日本酒」 と言えるのでしょうか? 第一、そんな酒をお金を払ってでも飲みたいと思いますか? 

一度でも三増酒のような質の悪い酒を飲んだら、先ほどのように日本酒に対する印象が良くなろうはずがありません。しかし、これも日本酒と呼ばれ、現在も流通しているのです。酒造会社は、生産性・利益性の高い酒ですから喜んで造りもしましょうが、こんな酒の存在によって日本酒支持者がどんどん減り、結局自分達の首をしめる事になっているのです。

三増酒の見分け方ですが、ラベルに 「米・米麹」 、「醸造用アルコール」の他に 「醸造用糖類」 の表示がある(化学調味料は表示義務が無い)酒は、敬遠された方が良いでしょう。また、一概には言えませんが、居酒屋等で妙に安く、特に機械による燗酒にされているものに多いようです。誤解の無いように言っておきますが、冷やで飲む酒は上等で、お燗用の酒はレベルが低いということは決してありません。人肌程度のお燗によって風味の開花する、素晴らしい日本酒は数多くあります。お燗という手法もりっぱな文化のひとつだと言えます。

本当の本物の日本酒(日本酒という呼び方も変な話です。清酒と呼ぶべきでしょう)は、世界に誇れる文化であると以前 「吟醸酒との出会い~」 の項で私は書きました。清酒がもっともっと自国の人々から愛され、吟醸酒に限らずとも、どの清酒であっても、これが日本の文化だと言える日が早く来て欲しいと願ってやみません。

(②へ続く)


(2003年7月 記)






温故知新シリーズ 13

<「やさしい男性」 は好きですか? ~男が男であるために~ >

 
巷に口当たりの良い柔らかい食べ物が増えてきたのと同時期に、「理想の男性像」 アンケートのトップに 「やさしい男性」 が占めるようになってきました。確かにやさしい男性というのは、女性から見れば求める大きな要素のひとつでありましょう。

さて、ここで問題なのは 「やさしい男性」 とは 「やさしいだけの男」 なのか 「やさしさもある男」 なのかということです。元来動物のオスは、生存のために外敵などからメスや子供を守る強さがあることが存在意義ですし、それができるオスの遺伝子は子孫へ受け継がれるチャンスが得られます。

昔の男たちは動物のオスよろしく強く逞しい人が多かったようです。異性には目もくれず、己が生きる道を突き進むという生き様が男性像の代表だったのではないでしょうか。いわゆる 「硬派」 と言われる男たちは、肉体面のみならず精神面も強く、艱難辛苦に臆することなく大志を具現化していった人達です。同性異性を問わず支持されるのももっともなことです。

翻って現代はどうでしょうか? 少なくとも今の日本は治安は良好で、面と向かって外敵に攻撃される心配はほとんど無いと言って良いでしょう。したがってオスに求められる強さの部分の必要性が薄れ、やさしく面白い男性が異性受けすることとなったのです。女性側からみても特に男性に守ってもらわなければならない危機というものはなく、強く逞しい男よりもやさしく面白い男に日々の、あるいは人生のパートナーとしての価値を求めているのかもしれません。

強さ、逞しさをアピールする必要の無くなった男性は、今度はいかにやさしく面白い男であるかを女性にアピールしなくてはなりません。それは内面の個性とも言うべきものなのですが、アピールには外見も重要な武器です。イケメン系を目指して服にこだわり、ダイエットで外見を磨き、ムダ毛を抜き、全身エステもめずらしくありません。強さ、逞しさの要素は自分の中から次第に失われていきます。でもかまわないのです。だって対象である女性は、それを求めてはいないのですから。面白い人だからお手軽だし、やさしい人だから負担にならない。

かくして女性主導の恋愛関係が成立し、男性はいついかなる時でも彼女に対してやさしく面白くあらねばならないのです。「・・・彼は面白くて私を飽きさせないし、いつだってグチも聞いてくれる。彼といると日々のストレスも癒されるわ」 「・・・ケンカしたって大丈夫。たいていは相手のせいにしちゃえるし、私が悪くても最後には全部許してくれちゃうもん。ウザくなったら次探せばいいし・・・」 付き合いの舵取りは女性に委ねられ、あげくに三行半(みくだりはん=死語)を出されて捨てないでとすがるのが男性だったなんて話、今じゃ別に不思議なことじゃないですよね?

女性に対するやさしさはもちろん大切です。でも、男性ならではの強さ、逞しさ、すなわち男らしさがあってこそやさしさが際立つというものではないのでしょうか? 例えば、料理にしても同じ物ばかりでは飽きてしまうし、野球の投手も同じ球だけではすぐに打たれてしまうでしょう? そもそも恋愛の第一歩は、自分にはない個性、男らしさに裏打ちされた個性に、女性があこがれや尊敬の念を抱くことから始まると言われています。真の愛情には相手への尊敬の念が必須なのです。

果たして「面白い」や「やさしい」だけで、あこがれや尊敬の念を抱かれると思われますか? 男性諸君!

取り繕った表面的なやさしさなんていずれ飽和状態が来ます。誰もがやさしいだけの男であったら、どこにでもやさしいだけの男ばかりになったら・・・。今度は口当たりの良い柔らかい食べ物に飽きた女性達から引導を渡されるのは 「やさしいだけ」の 男達でしょう。


(2003年6月 記)

・・・・・・・

お笑い芸人などをイメージさせる「面白くてやさしい男」。7年経った現在では「草食系男」と呼ばれるようになった。それには「人が良い」というキャラも含まれるようだ。

今でもそんな男を女が好んで受け入れているのであれば、特にアレコレ言う事もないのかもしれない。確かに、私の周りの男達を見ていても、面白くてやさしくて人の良い男は好まれている。だが、こと仕事という面から眺めると、そういう男が尊敬されているというケースは少ない。

尊敬されている男は、やはり仕事ができる男である。

直接的な危害が加わりかねない紛争や治安問題こそ、この日本においてはかなり影を潜めたものの、社会はまだまだ戦いの連続である。そんな競争社会の中で男は戦い、勝たねばならない。そうでなければ、いずれ不戦敗の時が訪れるのが世のならわしである。

先般、初期の採用面接に臨席した際も、学生時代に何かを頑張った、やり遂げた事というを紹介するコーナーで、彼らの実に7割以上の口から出たのは、学業以外のバイトやサークルの話だった。人生を決められかねない採用面接という戦い場で、頑張ったとアピールするテーマを本業以外で臆面もなく話す事に何も感じないのだろうか? それとも面接マニュアル本にそう書いてあるとでも言うのか? 

真摯にまっすぐ本業に取り組んだ事こそ熱く語るべきだろうに、残念ながら彼らの多くはそれ以上のステップに進む事はなかった。

やさしくて人の良い草食系の男とは、実は意図的に戦いを避けているだけのポーズに過ぎないのではなかろうか。だとすれば、それはせいぜいメスをゲットする時だけにしたらよかろう。




温故知新シリーズ 12

<閑話休題 ~プチモディファイ書きなぐり~ >

 
今回は、いつもの屁理屈だらけの私の主義主張ではございません。名だたるPEUGEOTオーナーが自分のHPでコーナーを作り、さまざまなモディファイを公開しているのが常々うらやましく、「ええぃ、やっちゃえ!」 で載せてみました。それも書きなぐりスタイルです。

あんまり車に詳しくはない、でもちょっとはイジッてみたい。お金はあまりかけずに、それで効果があるんなら・・・。どこにでもいるご都合主義のモディファイヤーが私です。

そんな私が今までに施したモディファイは、納車2ヶ月でのアーシングと今回のエアフィルター交換です。アーシングについては 「ホームページ立ち上げのワケ②」でも書いてますが、お手軽で効果的でした。市販品だと2~3万以上しますが、巨匠しげドンさんお手製の材料(ホームセンターで入手したそうな)ですと10分の1以下でできてしまいます。

アーシング(しげドン製)の特徴と効果のほどは、
 ・206XSの場合、コード3本設置するだけのお手軽モディファイ
 ・エンジンのフケ上がり、ライトの照度などの向上(オーディオの音も?)
 ・何より安くできること(材料費は1000円ちょっとだと思われる)
でありましょうか。

今回やってみたのがエアフィルター交換です。これは先日のオフ会で、やはりしげドンさん持参の純正交換のスポンジ状のフィルターを装着してみたところ、あまりの違いにびっくりして、自分でもさっそく購入して付け替えました。

エアフィルター交換(Green社製)の特徴と効果のほどは、
 ・低速~中速のトルクフィールの向上
 ・それはすなわち、軽く、なめらか、それでいて力強い加速感(だと思う)
 ・純正品と交換するだけの作業のみ(・・・サルではできない)
 ・最高級品でも1万5千円程度(1万円前後の品でも大差ないとか)
というところでしょうか。

以上の2点は、私のみならず同乗者も違いを実感できるくらい効果がありました。自信を持ってお勧めできると思います。

その他、曲面ルームミラー(メーカー忘却。前の車から移植)も後方の死角がなくなって便利ですし、カーナビ(楽ナビ。東京勤務復帰のドサクサ時にウチの財務省の許可が得られたため、気が変わらぬうちにとすかさず購入)も、道を覚えなくなるという副作用を除けばやはり便利モノですね。操作性も上々です。時々変なルートが出ますが・・・。

あと、運転席のザブトン(メーカー不詳)。これは長時間ドライブ時、自重のせいで、さすがのPEUGEOTシートでもお尻が痛くなった経験から装着しました。おかげで3時間以上のドライブも楽々です(ちなみに標準体重の方には必要ありません)。胸部および腹部の圧迫感減らしに付けたシートベルト伸びっ放しクリップも、つい肩に掛けるだけの 「なんちゃってシートベルト状態」 にしてしまいがちですが、ベルトの圧迫感ゼロで楽々です。こちらも標準体型の方には関係ございません。

そうそう、購入の際に装着したウインドーバイザー、これは雨の日の喫煙と空気交換には必須アイテムと申せましょう。プジョー印も付いてます。純正肘掛はお好みで。内部の物入れに何か隠したい人とダラダラ運転時に威力を発揮する程度ですが・・・。でも2万円は今でも暴利だと思ってます。購入時のハイテンション状態がなければ装着したかは疑問です。

忘れてた。ATブレーキペダルにアルミペダルを装着(上からかぶせて固定しただけ)してました。ブレーキベダルの面積が広がって、操作性向上です。見た目もcoolです。でも、アクセルペダルはそのままです。あんな形状に合うモノはたぶんありません。断念しました。ゴムペダルのまんまです。だからちょっとだけcoolなフットスペースになってしまってます。代わりと言っちゃなんですが、フットレスト(これも市販のものを両面テープで左端の出っ張り部分に貼り付けただけ)は、夏場のハダシ運転時にはヒンヤリとして気持ちいいです。

今後は、走行距離がそれなりに行った時点でのタイヤ交換(純正のはあんまり乗り心地が良くないらしい)を考えてますが、なんせウィークエンド・ドライバーの身、純正タイヤがいつダメになるかによります。使えるのにあえて交換するのはご都合主義に反しますから、いつになるやらわかりません。

おしまい


(2003年4月 記)

・・・・・・・

今やPOOBメンバーに限らず、またプジョーオーナーでなくてもリクエスト殺到の「しげドン・アーシング」。彼はいったいこれまで何台の車にアーシングを施して来たのだろうか? 優に100台は超えているに違いない。それほどお手軽で効果抜群のチューンなのだが、私の場合は殆ど新車の状態でやってもらったため、ここに記した以上の細かな違いがイマイチ分からなかった。

同じくしげドン氏から借りたエアフィルターは、一見ただのスポンジのようなブラック・ダイヤモンド社製だった。しかし何と言ってもアクセルフィールの向上だけは一目瞭然だった。後日、通販で購入できたのはスポンジの代わりに繊維が埋められたGreen社製のフィルターだったが、ほぼ同じような体感が得られた。

ま、モディファイと言ったら普通は排気系や車高調、スポーツシートやホイール、タイヤなども当然いじるのだろうが(カーボン製ボンネットへの交換という荒ワザもあったっけ)、残念ながら私にはそこまで車にかける予算も興味も無かった。だから私の206XSの外見はドノーマルである。そうそう、タイヤはバーストを機にPlayzに交換した。

そんな私の愛車だが、この夏で4度目の車検を向かえる予定だ。名古屋時代の2001年に購入した車なので、かれこれ9年ばかり乗り続けた事になる。もちろん、こんなに長く乗った車は初めてだ。それどころか未だに乗るたびにワクワクする。昨今はハイテクの塊のような車ばかりになったが、このプジョー206はローテク車と言っていい。だがガッシリと路面を掴むドライブ・フィールと直進安定性、回頭性は、本当のファン・トゥ・ドライブとは何かを教えてくれる。こればかりは同じセグメントの国産車あたりでは味わえないだろう。

この車で西は鳥取県まで走った事もあったが、トータル走行距離となればヘビーユーザー諸氏の1/3程度である。スキあらば一日数百キロのドライブも厭わないPOOBメンバーの中にあって、私は相当ヘタレの部類だろう。おかげでガソリン高騰時もさほど応えなかったけど。

来月は久々に古巣の名古屋でPOOB総会が催される。3月下旬なら東名よりもより景色の良い中央道をひた走り、途中で大学時代の同級生に顔を見せつつ名古屋入りしようかと思っている。気のおけない連中と思い切り弾ける宴会とカラオケが今から楽しみなのである。




温故知新シリーズ 11

<それぞれの春 ~出す人、抑える人~ >

 
春。毎年この季節になると見かけるフレッシュマンたち。つい、20年以上も前に過ぎ去ったあの頃の自分が蘇ります。書店のビジネス関係の書棚に、新社会人向けのハウツーものや自己啓発書の類がたくさん並ぶのもこの頃です。

中身をいくつか見てみると、決まって 「自分というものをどう表現すればよいか」 という項目が目に入ります。曰く 「欧米のように積極的にアピールすべし」 とか 「地道にじっくり実力をつけるべし」 「先輩上司にまずは可愛がられなさい」 などと様々な意見が載っていますが、いずれにせよ自分がその社会や会社、あるいは個人とどう向き合うかがポイントとなっているようです。

あなたは人に対して自分を 「出す」 タイプですか? それとも 「抑える」 タイプですか?

自分を(積極的に)出して行く人は、相手に自分の人となりを理解してもらうのに時間がかかりませんし、裏表を感じさせないので相手も安心して胸襟を開いて接してくれるでしょう。たとえ付き合いの浅い人にでも 「自分はこういう人間です」 と先に出してしまえば、コミュニケーションも進みますし、わかりやすい人間というのも存外魅力的なモンです。外交的な性格の人に比較的多いタイプではないでしょうか。

自分を(意識的に)抑える人は、相手に合わせて自分の表現をコントロールできる人です。相手に受け入れられやすく、良好な人間関係が続きやすいといえるでしょう。立ち居振舞いも大人だなと感じさせる人であり、聞き上手と言われる人でもあります。また、相手の言葉の真意を推し量れる能力も高く、それゆえ臨機応変な対応ができ、事前にトラブルを回避できる人だと思います。

私の場合は、たぶん前者のタイプなのでしょうか。おかげで人と打ち解けるのは早い方なんですが、得てして自分を出しすぎてしまうキライもあります。また、人の言葉の真意(ウラ)を読むという事が極めて苦手で、ついつい相手の言葉を額面通りに受け取ってしまい、時に誤解が生じたりもします。臨機応変に変化球を織り交ぜられない、直球しか投げられないピッチャーのようなものかもしれません。それでいて物事をわりと楽観的に捕らえてしまい、きめこまかな対応ができてなかったりします。

 江戸っ子は さつきの鯉の吹流し 口はデカいがはらわたはなし

実はこれが私の悩みのタネなんですが、もっとうまくやりたいと思っても、元来の性格のせいか未だ発展途上というところです。 ・・・それ以前に、もはやこの歳で直せと言う方がムリ?

自分を意識的に抑えて相手に合わせる事もできる人は、きっと誰からも好感を持たれ、また相手の本当の気持ちも慮れる人だと思います。そんな人が私の憧れの人物像なんです。


(2003年4月 記)

・・・・・・・

これは例によって旧websiteに掲載していたエッセーモドキで、前回エントリから一年ぶりのエントリだった。 ・・・にしては陳腐な内容である。あれこれ詭弁を弄しつつ、結局、無いものねだりの嘆き節ってところだろうか。

このエントリから7年近く経った現在、依然として私は発展途上のままである。新社会人の時代はとうに過ぎ去ってしまったが、こういう事は今でも考えている。特に仕事上のコミュニケーションでは、意識はしているのだが相手に合わせた変化球がうまく投げられない。それが時としてビジネスディスカッションの枠を超え、感情的なところまで左右しかねなくなる事もある。

昔のビジネスディスカッションでは骨太の相手も多く、その理論や意見はしばしば他を圧倒する力を発揮し、それが私を含めたメンバー全員を説得してしまったという場面もあった。そんな時はディスカッションに負けてすがすがしく、その結論をメンバーは快く受け入れていたものだった。

最近はそういう相手が少なくなったように思う。そこまでの意思と情熱を持って、それをぶつけて来るという人はあまり見かけない。マネジャークラスに至っては、良く言えばロジックよりもメンタリティ優先、悪く言えば組織の理屈から初めにこうするんだという結論ありきだから議論の余地は少ない。いきおいミーティングは、検討の場ではなく伝達と確認をする場の様相を呈する。

仮に反論や対案を述べたところで、結論ありきでなので根本が変わるわけではない。だから終わった後に参加メンバーにフラストレーションが溜まるのである。特に実務担当メンバーにはあきらめの感情が色濃く残る。

まぁ、こんなケースはさておき、相手に合わせて投げる球を持っている人はすばらしいと思うし、人の言葉の裏(真意)が汲めるという人もうらやましいなと思う。そういう人はきっと感性豊かで思慮深い人なんだろうな、と。私には手が届かない存在なんだな、と。






温故知新シリーズ 10

<サヨナラだけが人生か? ~名古屋の2年にありがとう~ >


数日前、突然本社 (東京) 勤務の異動内示がありました。急な話でしたが、サラリーマンの立場としては話があった時点で 「NO」 という返事はありえない事は解っています。幸か不幸か今は会社を辞する時期ではないので、私は4月1日に内示通り東京へ戻ります。

思えばここ名古屋に転勤を告げられた時も、夜になってから 「今、返事が欲しい」 と言われ、選択肢は 「YES」 しかなく、バタバタしながらも1ヶ月の後には動いていました。今回の事は、それから2年が過ぎようとしていた時の出来事です。

どちらにも共通しているのは、仕事の内容が大きく変わる事と、前任者の突然の退職による後任という異動理由です。そして、今の私の仕事を全うするには結果的に与えられた時間があまりに短かったという事実です。とは言うものの、得てして何かが動く時とはこんなものかも知れません。

つい最近、BBSに 「サヨナラだけが人生さ」 という言葉を書きました。「出会いの数だけ別れもある」 とも書きました。当然 「別れるために人は生きていると思いたくない。素敵な出会いのために生きているんだと思いたい」 という反論が多くの方から寄せられました。

私もそう思いたかったし、そう信じて生きて来たつもりです。でも、人生設計の多くを委ねている場所、即ち今最も自分のアイデンティティーの比重の重い場所からの意思は、否応無く最も重い決定力を持つと言っても過言ではないのです。たとえそこに 「サヨナラ」 しか残らないとしても・・・。

初めての土地へ行く時には生まれ育った土地との文化の違いを恐れた事もありました。所詮いつまでもそこに居る訳じゃないさと自分を慰めてもいました。それでも、もしも酷い目に遭った時は、それもある意味必然の出来事なんだと受け止める覚悟すら持って来た事を覚えています。

でも実際は、ほんのちょっとしたキッカケから想像以上の出会いが開けました。そしてそれは暖かな人達によって驚く程の拡がりを与えてくれました。その舞台は仕事でもプライベートでも同様だったのです。

そして2年。私のような年代においてはあっという間の時間です。多分に感覚的なものなのでしょうが、実際ひとつひとつの出来事もじっくり思い返さないと確認できない位の時の流れの早さでもありました。

でも、この時間の中で失ったものは幸いにして殆んどありません。その代わり得られたものはとても大きなものだったと思っています。インターネットは時と場所を超越するという事が十分に実感できました。だからこそ、そこに素敵な出会いがありました。これからも続けていける大切な出会いがありました。

短い期間でしたが、偶然必然のうちに公私共に私と出会い、私にさまざまな影響を与えて頂いた皆さんに改めて感謝申し上げます。文豪吉川英治氏の 「吾以外皆師」 「生涯一書生」 の言葉に少しでも近づいていけるような生き方をこれからも志したいと思います。

かの地でも活動は続けます。時間が許せば、時々覗いて見てください。


(2002年3月 記)

・・・・・・・

突然の転勤辞令に、それでも意を決して、生まれて初めて箱根の山を越え移住した地が名古屋だった。名古屋言えばきしめん程度しか認知していなかった私だったが、2年間の生活で名古屋のさまざまな顔を知ることになった。

まず食文化は、ロケーションのせいか東西文化がへんちくりんに混ざり合っていて、ちょっと理解に困る食べ物に驚かされるばかりだった。それまで住んでいた埼玉と同じくらい低レベルだと悟り、早々にダメ出しもした。仮にも海がある県庁所在地なのにこれでは、むしろ埼玉よりも救いようがないかもしれないとも思った。ところが時代は変わり、今ではかなりレベルの高い店が増えて来たようで、たまの出張があると、むしろ嬉しいと思えるくらいに進化したと感じている。

食文化はダメだったが、不動産は安かった。都市部の高層新築マンションが80平米で4000万円台だった。私もついその気になって昭和区に建設中だったマンションに出向き、見積書まで取ったほどだ。同時期に取り寄せていた東京の住宅情報誌に同じような価格の物件が載っていた事で我に返り、すんでのところで買うのを止めた。買っていたら3ヶ月も住めなかっただろう。

この地では、西枇杷島地区が呑み込まれた東海集中豪雨に遭遇した。あの日、地下鉄桜山駅から自宅に帰る道はまるで激流の如く、名古屋マラソンのコースにもなっている瑞穂通りに向かって路地という路地から大量の水が流れ込んで来ていた。もはやどうにもならず、革靴のままそこをザブザブと突っ切って帰った事も今では妙に懐かしい。

そして何と言っても忘れられないのが、プジョー206とそのオーナー仲間との出会いである。私の東京出戻りをキッカケに今や男女総勢20名を越す「POOB(プジョー太平洋OYAJIベルト)」が発足した。ネーミングの由来は、その頃オフ会などで知り合ったOYAJI世代のオーナー達の生息地が、西は岡山から、姫路、大阪、愛知、静岡、神奈川、東京など太平洋沿岸だったからだ。ちなみに私の206は今でも名古屋ナンバーのままである。

現在のPOOBは、さすがに全員がプジョー206オーナーのままというわけではなくなったものの、女性会員も含めて年2回ペースで総会と称する温泉&飲み会&カラオケのお泊りドライブを楽しんでいる。酒と歌をこよなく愛するOYAJIがいる限り、POOBはこの先も続いて行くだろう。

時代が移ると共に、初めて作ったホームページもこのブログへと移った。私自身もとうに50代に突入したが、まがりなりにも何とか元気に飲んでは歌い、笑ってはふてくされる毎日を送れているのだから、こりゃたぶん幸せと言っていいんだろうな。



温故知新シリーズ 09

<GOD and ABYSS ~私的想像の世界~ >

 
私は特に信仰を持っていません。唯一の宗教体験は、幼稚園がキリスト教(プロテスタント)だった関係で少しかじってみた事があるくらいです。そんな私がこの分野でマトモな見解を述べられる道理もありませんが、何分 「私的想像の世界」 という事でお許しを。

普段は特に宗教を持っていない人でも、ここ一番という時や思わぬ幸運・不運に見舞われた時、何か見えない力の存在を意識する事ってありませんか? 

ある人は 「絶対的なもの、あるいは何かわからない大きな力に対する畏怖の念は、もともと人間の遺伝子(本能)に組み込まれているもので、それゆえ時に神や霊魂の存在を意識させる」 と言ってます。もしかしたら西洋人の創造した宗教における 「神」 は、絶対的な存在を擬人化し 「神」 と称した方が、万人に解りやすいからと誕生したのかも知れませんね。

私は満天の星空を見ていると、そこに吸い込まれそうで怖くなります。漆黒の無限空間を仰ぎ見て脳裏に浮かぶのは、なぜか手塚治虫の 「火の鳥」 です。読まれた方はお解りでしょうが、無限の命を宿す 「火の鳥」 の本体は無数の意識体が集まった宇宙でした。この天才の作品を読んでからは、物理的な肉体は有限でも、意識体というのは無限に存在し得るという概念が何となく理解できるようになりました。

人間は頭脳的には高等生物だけれど、自然界での存在としては非常に弱く、弱いから恐れ、迷いが生じます。高等な頭脳を持った弱者が求めるもの、それは絶対的な強さや絶対的な存在なのでしょう。それを敬い、それにつながろうとする者、あるいは自らそれに近づこうとする者、その手段として「宗教」というものが生まれたと思うのです。

そんな私の想像する天国と地獄とは以下のような感じです。

肉体が滅びる時、その意識は最も大きく持っていた思念の波長を宿しています。波長が合う意識同士は、磁石のように引き合い、それが集まって火の鳥の本体のようにひとつの宇宙を形成しています。さらにそれはまるで銀河系のように、感情や欲望の種類毎に異なる小宇宙として、それぞれ似たような波長を持った意識体が互いに影響しあって存在しているのです。類は友を呼ぶ、の通りです。

これを外部から視覚的に見ると、波長の関係からか善意の意識体は明るく、恨みや欲望の意識体は暗く見えます。まるで銀河と暗黒星雲かブラックホールのように ・・・。それが私の(科学的?に)想像する天国と地獄のイメージです。

この世界でも、明るい気持ちや幸せを感じるのは楽しいし、気分が良い事です。憎しみや恨み事を抱えたり、満たされぬ欲望の虜になっているのは辛い事でしょう。でも逆に見れば、自分を律しながら、善意や幸福感を持ち続ける事は結構キツく、いつでも感情の赴くまま欲望の赴くまま振舞うのは楽だとも言えます。

意識体の宇宙も、もともと気の合う意識の集合体ですから、それが善であっても悪であっても、そこは気分の良い居心地の良い世界です。また、同じ波長で固まった意識体の宇宙ですから、永遠にその状態は変わらないでしょうし、変わる必要も無いでしょう。こうして全ての意識体はどこかの宇宙に所属し、永い時間を過ごしているのです。

そのかわり、いったん取り込まれた意識体の宇宙からは簡単には移動できません。特に、波長(意識レベル) を高い方へ変えるには相当な時間とパワーの積み重ねが必要です。ある意識体が自分の波長の誤りに気が付いてそこから抜け出そうと試みても、よほどの強いエネルギーがない限り (あるいは与えられない限り) もはやその引力から脱出することはできません。

脱出できなければさらなる永い時間、いやでも同じ意識でいなければならず、ますます辛く苦しい事になります。その辛さ苦しさに負けて波長が落ちればさらに奥へと引き込まれ、最後にはブラックホールのような暗黒の意識体の宇宙へ取り込まれて行きます。これがスター・ウォーズで言えば「ダークサイド」、仏教で言うところの 「無間地獄」 なのでしょうか。

人の一生はそれぞれが全て違います。どんな心を持ち続けているか? どんな行動をしているか? 自然や人とどう関わっているか? 何を果たしているか? などなど、意識の波長に影響する要素は数限りなくあるでしょう。生きているという事自体が、すでに大いなる 「Trial」なのかも知れません。自分の意識の波長は、最終的にどう決定されるのでしょうか? そしてその意識の行く先は・・・。


さて、あなたはどう生きますか?


(2002年2月 記)

・・・・・・・

あれから7年半、齢50も過ぎればこんな事を考える時間が多くなっているなと、最近つとに感じる。

これは私が初めて作ったホームページに書いたエッセイの中でも最も小難しい文章で、それでも日頃からどこかにこのイメージを抱いていたからこそ書けた文章でもあった。

私自身はさほど「生」というものに執着は無い。人はもれなくどこかで必ず一度死ぬ運命にあるのだから、たとえそれが明日であっても静かに「そうですか」と受け入れられると思っている。周りの連中にもよく言ってる理想の死に方は「ドンチャン騒ぎで疲れて眠りに就いた翌朝死んでいた」である。

だから私にとって最も恐れる未来の姿は、認知症と寝たきりだ。こうなると周りに致命的な迷惑をかける事になる。認知症ならまだしも、意識を持っていながら身体的障害で寝たきりにでもなったら、情けない己の姿と周りの大変な様子が分かっていながらも、どうにもできない現実というものに苛まれ続けるのである。

家族には、もし私が倒れていても2時間は救急車を呼ぶな、ガンになったら一切の治療は放棄して直ちに緩和ケアだと事あるごとに言っている。現代医学では、患者の状態はお構いなく、とりあえず生かす事こそが正義のように思われているフシがある。患者は何が何でも「生かされ」てしまうから、完治が見込めないのに苦痛だけ与える治療や検査、果ては植物状態にあっても生かされて、気がつけば人としての尊厳など二の次になっているケースも少なくない。

私は病気や事故によって肉体的に失われるであろう生を、自らの選択によって終わらせる権利があっても良いのではと思っている。必ず訪れる死というものを、意識のあるうちに迎えたいと思っている人に迎えさせてあげる事は、決して犯罪ではないと思うのだ。もちろん自殺とは別次元だ。その人はただ生かされる事よりも、自らの意志によって終わりを迎える選択をしたに過ぎないのである。

「昔ならとっくに死んでいた」という時点で死を迎えられる、そんな日が訪れる事を願っている。



温故知新シリーズ 08

<地下鉄に乗って ~カジュアル&フォーマル考~ >

 
通勤途中の地下鉄の風景で思う事がありました。何を隠そう車中のサラリーマンやOLの服装や身だしなみについてです。こんな事を言うようでは、もはやリッパなOYAJIの証拠と言われそうですが、いずれ 「熱きガンコ爺(?)」 を目指す身としては敢えて言わせて頂きます。

まず女性。髪の毛をやたら明るく染めているのは百歩譲るとして、カカトのはみ出た細いツッカケ(ミュールと言うそうな)は何とかして欲しいです。あなたはこれから仕事に行くんであって、買い物に行くんじゃないでしょ? 仕事に向かう真摯さが伝わってきません。会社では履き替えるのかも知れないけれど、その格好での通勤は決して微笑ましいものじゃありませんよ。
 
それ以上に、お願いだからやめて欲しいと思うのが、車内でのお化粧です。あなた、欧米では人前で化粧するのは娼婦と見なされるんですよ。そんな人を見るたび、失礼ながらお里が知れるよって言いたくなるんです。それでなくても鏡を見ながらマスカラなぞ塗ってるさまは、百年の恋だって醒めちゃいます。 ・・・少し早めに起きましょうよ。

さて男性諸君。特に営業関係の仕事をされている方へ。

身だしなみは心の表れと申します。若い世代に人気の三つボタンスーツはまだ市民権を得ているとは言い難いし、黄色やピンクや原色系のワイシャツもそうでしょう。よく若い人はカジュアルに振った服装が 「自分らしさの主張」 と言いますが、ビジネス・シーンにおいては、自分らしさは仕事の能力で示す事が基本です。これがアパレル業界等の話でしたら、自分も広告塔なんですから共感できますが。

また、服装と同様に髪の毛を女性のような色に染めているのもやりすぎのように感じます。服装や立ち居振舞いは、カジュアルな時の自分とビジネスの舞台に立った時の自分とでは絶対に違うはずです。当然つけているべき 「けじめ」 があると言って良いでしょう。

そもそもオーソドックスな服装でなぜいけないんでしょう?  

信用を重視する業種ほど、あるいは同じ会社の中でもエラい人ほど基本に忠実な身だしなみではありませんか?  あなたの取引き先やお得意様にも年配の方はいらっしゃるでしょう。その人達はあなたの親世代同様、結構保守的です。服装や身だしなみで第一印象が左右される事はままあります。その時は言葉で言わなくとも、心の中であなたは値踏みされているんです。

第一印象を間違えると 「オシャレでユニークなヤツ」 は 「チャラチャラした、いいかげんなヤツ」 になってしまいます。たとえ後々のお付き合いからあなたの良さが分かる時が来たとしても、大切な第一印象で明らかに損をするリスクを負う必要はないでしょう。

あなたの存在は、あなた個人の主張だけでなく、あなたの会社の信用やイメージも語っているのです。カジュアルとフォーマルのT.P.O.を使い分けてこそ一人前の社会人だと思うのです。仕事だけでなく、アフター5も視野に入れているんだと言うのなら、その時になって着替えれば済む話です。

・・・最後にひとつ。スーツの時の柄モノや白のソックス。これは例外なく 「社会人以前の子供」 と見なされますのでご注意を!


(2002年2月 記)

・・・・・・・

このエントリを書いたのは、かれこれ7年以上前という事になる。

その時からこれまでの間に市民権を得たと言えるのは、かろうじて三つボタンスーツぐらいだろうか。それでも今やスリムスーツとやらまで行ってしまって、若い連中は寸足らずのような短ジャケットとジーンズ並みにフィットした細身のパンツに身を包んでいる。ボディコンシャスも男の場合は気持ち悪いだけだって。

シャツもどこで流行っているのか、ツートンカラーやピンク系が目立つ。しかも似合わないデブに限ってピンクのシャツなんかを好んで着ている。また、イチロー気取りか中田気取りか知らないが、坊主頭のような短髪に無精ヒゲはチョイワルオヤジのつもりなのかね? 断っておくが、ここは営業会社だぞ。

女性の電車内の飲み食い化粧は相変わらず日常茶飯事。そんな仕草を人前で平気で見せるのは売春婦くらいのモンだという事に彼女らは全く気付いていないに違いない。

服装と言えば、本社の内勤社員も夏場あたりはハデな色のノースリーブやタンクトップ、ミュールが闊歩してしてる。ここは昼の仕事場だ。夜の仕事と勘違いするな!

車内で座ってる客も立ってる客も一心不乱にケータイに見入っている風景も異様だ。最近はそれに加えて、通勤時の満員電車でも平気で携帯ゲームに没頭してる輩もいる。こっちからはiPod付属の耳に掛けるタイプのイヤホン故に漏れて来るシャカシャカにイライラさせられる。本人は全く気にしていないのである。

結局、あの頃とちっとも変わってないんだなと書きたかったのだが、それはたぶん間違っているだろう。むしろ全てにおいてより酷くなっているんじゃなかろうか? 時が経つに連れ、ないがしろにされながら何かが確実に崩壊して行っているんじゃなかろうか?

それを新しい文化だとは間違っても呼びたくはないし、少なくとも私は認めない。




温故知新シリーズ 07

<のすたるじぃの風 ~Once Upon a Time~ >


「心にある風景は、いつも美しく思い出される」 という言葉があります。何かの拍子にふと思い出される美しくも懐かしい風景 ・・・これを 「心象風景」 と呼ぶのでしょうか。

暮れからの帰省の折、ちょっと足を延ばしてそんな場所の一つに行ってきました。越境入学をして通っていた小学校です。電車で2駅、バスで5分、徒歩でさらに5~6分の所にあります。決して遥か遠くの場所ではないのですが、小学生当時の私にとっては隣の県への電車通学は結構な距離を感じていました。やがてタレントの小堺一機が出たことで少し知られるようになるこの小学校ですが、公立でありながらも私と同類の越境組は何人もいました。私のクラスにもいて、帰りは一緒に帰ったものです。

車を降りて、バス停から当時の通学路をゆっくり歩いて行きました。細い路地のような道です。この脇にあった古本屋、あの家の裏にあった駄菓子屋、その角にあった八百屋、憧れて毎日覗いた庭付きの家・・・それらはみんな消えてしまっていたのです。当時の面影を残す景色もわずかにありましたが、年月による様変わりはこんな地味な場所でも避けられなかったようです。でも、この路地のような道だけは、変わらずに続いてました。

思ったより短い距離を歩いて学校の前の川に着きました。 「桜堤の花明かり・・・」 と校歌に歌われた桜並木の土手は、ずいぶん前の護岸工事でコンクリート堤となり、桜の木もまばらになっていました。橋を渡った所が、卒業時にようやく鉄筋に建て替えられつつあった母校です。もうそれも古びたと言えるほど年季が入っていました。

木製から鉄製に変わった朝礼台、その横の杉の木は今や校舎と並ぶくらいの大きさに成長してました。父兄も一緒になって必死に集めたベルマークでもらった回旋塔とジャングルジムは姿を消し、横綱佐田の山を迎え土俵開きをした土俵は、砂場の横に引っ越してました。校庭の土までは変わってなかったように思えました。あの頃踏みしめた所を確かめるようにゆっくりと歩きながら、優等生なんかじゃなかった当時の自分の姿と友達や先生方の顔が交錯し、当時と景色こそ違っても不思議と空気の臭いは一緒だなと感じていました。決して狭いわけではない校庭でしたが、すぐに一周してしまいました。

近くに小さいながらも歴史のある稲荷神社があります。下校途中によく寄り道して、境内に来る紙芝居屋に群がっていたことを思い出しました。片隅に、型抜きという遊びに夢中になって座っていた石が、だいぶ擦り減りながらもそのまま残っていました。改めて今そこに座ると、また同じ空気の臭いを感じました。

当時、ずいぶんと遠回りしたなと思っていた江戸川辺りまでも、あまり時間がかからず着きました。こうしてみると、当時の行動範囲は小学生にしては結構広かったように思います。でも今では、そこは立ち並ぶ新しい家々に阻まれ、川はおろか土手さえどこにあるかわかりませんでした。 ・・・雪の日に手製のソリで滑り降りたあの土手が。

・・・そうそう、当時は長屋住まいや呼出電話なんて珍しくなかったし、ツギ当て半ズボンやセーターも普通だったよね。先生が怖い存在なのは当たり前だったし、先生方は親達からしっかり信頼されていたよ。信念を持った聖職者だったと思うよ。ウチの親なんかも 「死なない程度にひっぱたいて頂いて結構です!」 なんて言ってたし。結構ワルさもしたし、本当にひっぱたかれもした。でも先生にどんなに怒られても、学校を休むヤツなんていなかったよね。ぼくらの一日は、学校へ行くことから間違いなく始まってたし、校庭一番乗りが自慢だったよ。不登校や引きこもりなんて、言葉すらなかったよね・・・。

もしかしたら、生まれ育った故郷とは別に、もう一つの心の原風景を持っているというのは、ある意味とても贅沢なことなのかもしれません。懐かしいんだけれども、今の自分にはちょっと場違いような感じ・・・。しばし佇んでいるとまるで時間が逆戻りするかのような不思議な感覚・・・。別の世界にいても、すぐに距離と時間を越えて戻って行けるような場所・・・。

そんなことをぼんやりと考えながら車に戻ったのは、冬の早い夕暮れ時でした。


(2002年1月 記)

・・・・・・・

小学校卒業は昭和45年の3月。改めて数えてみれば40年近くも前、まさに昭和の真っ只中の事だった。

小学校に入学した年は東京オリンピックがあった。千葉街道で旗を振った記憶がある。卒業の一年前にはアポロ13号による人類初の月面着陸だった。視聴覚授業でその中継を見た記憶がある。卒業した年は、その時持ち帰った月の石と岡本太郎作の太陽の塔で沸いた大阪万博があった年で、大阪まで「夢の超特急」と言われた東海道新幹線に初めて乗った時でもあった。そんな機会でもなければ東京から大阪へ移動する必要など無かった時代である。それほど日本の東と西はまだまだ離れた土地だった。

またこの時代は、木造校舎から鉄筋校舎、土手の護岸工事などで木や土からコンクリートへ替わりつつあった高度成長時代でもあった。小学校の終わり頃、中学校の終わり頃、千葉県と東京都の違いで時間的差はあったものの、いずれも木造校舎から鉄筋校舎へと改築が行なわれた。

木造校舎と言えば、何と言っても床掃除。家からキッチンハイター(漂白剤)を持ち出して、それをバケツに薄め、タワシで床をゴシゴシ磨く。ワックスなど無視、濡れた床が一夜明ければ見事な白木の床に大変身! このワザ(?)で、中学の時の校内清掃コンクールでブッチギリ優勝を果たした。それもこれも木造校舎ならではの思い出である。

・・・こんな昔話をする私も、やっぱり古い人間なんでございましょうかねぇ。(by鶴田浩二)





温故知新シリーズ 06

<「二文字洋画」礼賛 ~素直な感動に浸る夜~ >

 
1940年から50年代にかけて製作され、遅れて日本公開。その時つけられた二文字の邦題名から、これらの洋画を 「二文字洋画」 と私は勝手に呼んでいます。年代からもお解りの通り、我々の親世代が青春の頃の映画たちです。代表的なものに 「哀愁」 「旅情」 「慕情」 「情婦」 などがありました。

殆んどが男女の悲恋モノで、ストーリーは単純です。でもこれが良いのです。得てして今風の恋愛モノは、キャラクター設定やストーリーが妙に大仰に凝り過ぎて、なんとなく食感が悪いと思うものですが、この時代の映画は、素直に入り込め、素直に泣けます。巨大スクリーンやドルビーサラウンドもない、モノクロの小さなスクリーンというのも一役買っているでしょう。

その中で私のイチオシは 「哀愁」 です。今も自信を持って洋画No1に挙げます。主演はヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー、監督はマービン・ルロイ、1940年作の米国映画です。原題は 「WATERLOO BRIDGE」 。あの 「君の名は」 の原型ともなりましたが、作品のレベルは比べるまでもありません。これが第二次世界大戦時に作られていたというだけで、やっぱりアメリカはすごいと思ってしまいます。

第二次大戦中のウォータールー橋の上で、手に握った想い出の小さなマスコットを見つめる初老の将校。映画はそこから第一次大戦中にさかのぼります。舞台はロンドン。空襲警報の中、この橋で初めて出会い、一目で恋に落ちる青年将校とバレリーナ。・・・物語の始まりです。

デートに誘われたある夜の将校クラブ。フロアで踊る二人。バックで静かに演奏される蛍の光の曲。演奏の途中途中でひとつずつ消されてゆくキャンドル。二人の感情のみならず、その後の運命までもを、台詞なしですべて物語る最高の演出! これが有名な 「キャンドル・クラブ」 のシーンです。

結婚を決意した二人。彼が戦地に赴く前に、彼の身内であり上官である老将校にそれを報告します。彼は最初は驚きますが、踊り子という職業よりも彼女の人柄を認め、許可を与えます。一方で彼女は、男女交際厳禁のバレエ団にそれがバレて、抗議した友達と共に退団させられてしまいます。生活はたいへんでしたが、やがて戦地に赴いた彼の仲立ちで、援助を申し出た彼の母親と対面することになります。彼の家は裕福な名家、彼は自慢の息子です。緊張する彼女ですが、ついにその日がやって来ました。

しかし、ふと見た新聞でなんと最愛の彼の戦死の報に触れてしまいます。それをまだ知らない彼の母親の気持ちを思うあまり、その事を伝えることが出来ず、かえって態度がおかしくなり、いやな印象を与えてしまいます。怒った母親は郷里に帰り、失望した彼女は、バレエ団を退団した友達と共に生活のために夜の蝶へ・・・。

でも彼は生きていたんです。復員してきた彼との皮肉な再会は、いつもの通り客引きのために駅へ行っていた時でした。驚きより嬉しさのあまり、それまでの生活を彼に言えず、「幸せになるのよ」 と言う友達の励ましにも押され、すべてを隠して結婚へと歩み始めます。彼の家での披露パーティーの夜。踊り子との結婚なんて、名家の一族から認められるはずがありません。英国は階級社会、当然といえば当然です。しかし、一族の長でもある、あの老将校が、パーティーの席上で彼女を踊りに誘い、いぶかる一族に彼女を暗黙のうちに認めさせてしまうのです。何とも温かないい場面です。

このままならハッピーエンドなのですが、物語はまた動きます。彼女はどうしても良心の呵責に耐え切れず、その夜とうとう彼の母親へそれまでの事を打ち明けてしまいます。名家の跡取の息子の嫁としての資質を気にしながらも、彼女に理解を示す古き良き母親。だからこそ悩んでいた彼女。打ち明けられ、ショックを受け、人情としては理解できるが、伝統と格式の手前やはり全面的には支持できないという演技が秀逸です。そして朝を待たずに彼女は去ってゆきます。

翌日、去って行った彼女を必死に探すうち、彼は彼女の友達から今までのすべてを明かされます。すべてを知って、それでも彼女への気持ちは変わりません。しかしその頃、彼女はすべてに絶望し、泣きながら彷徨った橋の上で馬車に飛び込んでしまうのです。

・・・そこは彼女が彼と初めて出会った場所でもありました。



時期遅れのクリスマス・プレゼントとして、素敵なあなたに贈ります。


(2001年12月 記)

・・・・・・・

この「哀愁」を初めて観たのは中学生時分だった。たまたま自宅で母親が観ていたNHKの名画劇場で「これは私が女学生時代に観て感激した映画の一つだったわ」 としみじみ語った言葉が印象的だった。

単純なメロドラマなのだが、一回目ではその意味するところがよく分からないという場面がいくつかあった。なぜ彼の母親に嫌われるような態度をとったのか、なぜ彼の母親は彼女の人柄を認めつつも告白にたじろいでしまったのかなどなど、そこにはたぶん「大人の事情」とやらがあったのだろうが、若輩の私には理解できなかったのである。

それでもこの映画は、最も私の心に残る最高評価の名画となった。名画座があれば行って観る、TV録画やVTRカセット、DVDなどはすべてゲット。ついでに、名画座に誘いたかった女の子に見事にフラれちまった過去のオマケ付きだわ。トホホ

この映画は何も構えずに感情移入でき、心置きなくたっぷり泣ける事を保証する。当世の映画に見かけるような、登場人物の妙に複雑な心情表現や入り組んだ展開のラブストーリーに食傷気味の向きには大いにオススメしたい。たぶん脚本力の差なのだろう。たまには身も心も素直にさらけ出して映画に委ねてみるのもいいモンである。





温故知新シリーズ 05

<色気と色香 ~真に美しい女性たち~ >

名古屋もきれいな娘が多くなったなぁ・・・。20年程前、日帰りの仕事で訪れた時に比べたら行き交う女性のレベルが格段に上がったと思えるこの街に、20年経って今度は転勤で住むようになりました。

当時、地下街を300mほど歩いている間にすれ違った約20名の女性のうち、つい振り向いてしまうような人は、申し訳ないけど皆無でした。でも今はそんなことはありません。思わず目を奪われてしまう女性が、どこででも当たり前のように歩いています。この20年で、ここの女性は確実に進化していると思います。スタイルや服のセンスなども隔世の感があります。

彼女らは若い気に満ち溢れ、いわゆるフェロモンを大いに発散しているのでしょう。特に20代では、この「色気」が黙ってても満ち溢れています。その存在だけで十分、あとは何もいりませんと言いたくなるほどの、まさに黄金期であります。

・・・花の命は長くはありません。
 
20代も後半からは、黄金期にもやや陰りが出始め、ただ 「若い」 「かわいい」 だけでは通用しなくなり始めます。見た目の「若さ」は決して一生の武器とはならないのです。また、単に 「若い女性」 「かわいい女性」 だけでは 「大人の女性」 とは認知されません。

たぶん大切なことは、年代に関わらず自分というものをキチンと持つということです。自分をしっかり持たずに、まして精神的にpoorだと、特に異性とのコミュニケーションが「本能」の求める方向のみに走りたがります。お互いの会話がつまらなければ、高め合えるものが無ければ、本能的にスキンシップで確認したくなる。それに慣らされてしまうと終いには、本能がおもむくままのコミュニケーションで事足りる関係になり、飽きたら、ジ・エンド。

・・・哀しいことじゃありませんか。

魅力的な大人の女性は 「知性」 に裏打ちされた 「聡明さ」 を持っていると信じます。インテリジェンスに裏打ちされた色気は最強です。私はそれを 「色香」 と表現したいと思います。「色気」 は表面から、「色香」 は内面から出ます。それは決して色褪せることはありません。かえって年齢を重ねる毎に、美しく浮き出てきます。こういう女性を、世の男性は 「いいをんな」 と言うのでしょうな。

知性の裏付けとなる教養や押えておくべき話題の守備範囲ですが、例えれば相対性理論からワイドショーまで。深さよりは広さをまず求め、目安としては、さしあたり同年代の「大人の男性」と話がし合える程度とすれば如何でしょう。相手の話にいつでも、ある程度まで即応できるレベルは、決して高いものではありません。話のレベルさえ合っていれば「大人」には「大人」同士が一番居心地がいいはずです。結構刺激的なコミュニケーションの世界でもあります。

さて、話題と教養の範囲を広げるための最も簡単で、効果的な方法は? 
 
私は月に2回位の大型書店通いをアドバイスします。これは私の趣味でもあるのですが、ここでゆっくりと2時間程度をかけてさまざまな分野のコーナーを巡ります。そうすると、中には思ってもみなかったジャンルの本や、今だからこそ気になるジャンルの本があることに気付きます。その中から、興味を引かれた分野で読みやすそうなものを選び、2~3冊買って帰るのです。時には雑誌だけ買うこともあるでしょうが、その時はそれでも構いません。どんな本でも、自分で選び自分で買ったのですから、とりあえず目は通すでしょう。そして少しずつ知識や見聞を広げてゆくのです。だったら図書館通いの方が経済的だと思う向きもありますが、自分で買って読むという緊張感のために図書館よりは大型書店をお勧めする次第です。

慣れてきたら、今度はひとつのジャンルを少し深めに探ってみます。友人との会話の材料にしたり、他の人の意見を聞いてみるのも良いでしょう。仕事を持っている方は、そこに生かしてみるのも良いと思います。面白いもので、教養はさらなる教養を、知性はさらなる知性を呼ぶようです。加速度的に広さと深さが出てきます。ここまで来れば、あなたは間違いなくそれまで以上に輝いていること受け合いです。きっと素敵な「大人の女性」になっていることでしょう。

「色気より色香のある女性」 それは私達男性の永遠の理想像です・・・よね!

結論。

そんな女性たちにいつの日か 「ステキな大人の男性」 と認められたくて、ムダと知りつつもせっせと書店通いをしている poor な私・・・。


(2001年12月 記)

・・・・・・・

何とまあ! 恐れを知らない文章とはこういうのを指すんだな。

でもね、東京に戻って7年経った今も「イイ女」ならぬ「いいをんな」には変らぬ憧れを抱いている。駅のホームや通勤電車、雑踏ですれ違う女性が「いいをんな」だったら、迷わず振り返ってしまう。

で、考えてみた。

しょっちゅう仕事でコミュニケートしているウチの会社の女性社員ならいざ知らず、たったひと言の会話すら交わさず、ただ外見のみで「いいをんな」と判断するのはなぜだろうか? 若いだけの色気ではなく、大人の色香を感じる決め手はどこにあるのだろうか?

まずは目。知性あふれる目と言うのは確かに存在する。それは黒目の輝きに最も表れるような気がする。でも、それだけじゃない。次に口。キリっと結ばれた口元はまさに知性の象徴と言える。反対に緩んだ口元は知性のダダモレを感じる。もともと入っちゃいないのかもしれないが。

そして服装。公共の場でもまるで自分の家にいるかのような、人目を気にしないと言うより、既に自ら女性を放棄してしまったと言わんばかりの古着のようなファッション。ヘタすりゃ男女の区別すら無用な格好には、もはや知性の知の字も見当たらない。そうかと思えば、いい年こいて安物のコスプレまがい。もちろんこんなの論外。

まとめると、目と口元、それに服装との調和が知性を醸し出し、大人の色香を感じさせるのだという結論。ただし、これはアラサー以上の女性限定の話である。10代や20代中盤までの女性は、いくらキチッとしたリクルートスーツに身を包んでも色香には程遠い。

だから女性諸君。少なくとも平日は自分にルーズになる事なく、表情と服装にいい意味の緊張感を持って外に出て欲しい。「いいをんな」には大人の色香をもっともっと振り撒いて欲しいのだ。

ここまで書いて気がついた。

何とまあ! 恐れを知らない文章とはこういうのを指すんだな。




カミさんも物欲

「あっ、また固まった。もうこれ寿命なのかな・・・」唐突にカミさんが呟いた。

中古で購入したノートPCの具合が悪くなったらしい。見ると、立ち上がりで固まったようで、どうやらブート部分の不具合が発生しているようだ。確かにHDD自体の寿命が来たのかもしれない。何せ購入した2001年時点で既に中古だったのである。でも10万円以上はした。

当時のプレゼンは、まだオーバーヘッド・プロジェクタ(OHP)がメインツールだった。

ウチの会社でも2002年頃から徐々にパワーポイント(PPT)が出始めてはいたが、まだまだPPTを使いこなせる人間も少なく、おまけに現場はデスクトップPCが主流で、ノートPCは共用で1~2台あるのみだった。外部施設でもPC用プロジェクタはほとんどなく、説明会などでは依然ポータブルOHPを持ち歩いていたものだった。何度も使うOHPシートを如何に手垢にまみれさせないかが大きな問題だった。

これではいけない。製品説明資材がPPTで作成されるようになったのを契機に、研修のプレゼンにもPPTを積極的に使おうという事で自腹を切って購入した。・・・ま、これはカミさんを説得する表向きの理由で、半分は自分専用のノートPCが欲しかったのである。

やがて各人に会社からノートPCが貸与されるようになり、購入したノートPCの方はいつしかカミさん用となっていった。ネットにアクセスさせていないので、使ってもワードやエクセル程度だったけど。

・・・・・・・

「小型のノートPCを見に行きたいな・・・」これまた唐突にカミさんが呟いた。

早速、私はネットで情報収集&猛勉強。最終的にネットブック2機種に絞り込んだ。どちらのスペックも価格もほぼ同じ、後は好みで決めればいいと新宿の大型店に先乗りした。驚く事に、イー・モバイル新規同時加入で本体価格が10分の1にもなるのだ。まるで初期の携帯電話みたいである。中には100円機種すらあった。これは利用しないテはない。

ただしイー・モバイルは最低2年契約でランニングコストは月3000円、早期途中解約には多額の解約金がかかる仕組みだ。さほどネットを使わない人なら結局は高くつく。そこで出てきたのがドコモのデータ通信。ランニングコストこそ割高だが、途中解約は1万円でできる。PC本体3万円引きに加え、旧モデムプランなら端末1円のうえ、さらに1万2000円の追加割引もあると言う。これは知らなかった。

計算したら4万2000円もの割引となり、支払い総額は何とイー・モバイルの場合よりも安くなった。これなら購入した翌月に解約しても実質3万円以上の値引きを受けた事になる。さらに最近は「HOT SPOT」に代表される公衆無線LANサービスもある。どうしても外でネットしたかったら接続ポイントに行けばいい。だいたい月400円~1600円程度のコストで済む。

・・・・・・・

戦略も決まり、後は買うだけという段に至って問題が起きた。イー・モバイル加入にはクレジットカードのみで良かったが、ドコモは免許証か保険証も必要だったのである。身分の証明ならクレジットカードで十分だろうとは思ったが、あいにくそれ以外は所持していない。出直すしかなかった。

「無きゃ無いでいいかも・・・」これに目が覚めたのか、初めから冷静だったのか、三たびカミさんが呟いた。

当の本人が要らないと言うなら話は決まりだ。私もわざわざ屋外に出でモバイルするほどのネットフリークじゃなし、所詮はモノ珍しかっただけなのかもしれない。こうしてカミさんを交えた物欲騒動は(一時?)終息を迎えたのである。終わってみればあっけないモンだ。

ああ、それにしても昨日は長い一日だった。





温故知新シリーズ 04

<転職は収入アップかキャリアアップか ~私の事例~ >

 だいぶ前から、時代は 「集(団)」 から 「個(人)」 へ変化してきていると言われています。すなわち個人が集まった 「集団や組織」 が活動の単位であった時代から、組織の中の 「個人」 がその単位となり、そこに注目が集まってきているのです。言い換えれば、従来では組織の中に埋没しがちだった個人の比重が大きく高まってきたとも言えます。

これからは集団や組織ではなく、そこに所属する個人の感性と力量がモノを言うということです。

とすれば、その個人を高く売るあるいはステップアップさせる目的で、ある時期に集団や組織を移動すること、すなわち 「転職」 は目的達成のためのひとつの有力手段となるでしょう。私もそんな転職をしてきた一人です。

社会人になって最初に入ったA社は 「社名は国内で歴史も古く有名だが、この業界では歴史が浅い」 というグループ企業でした。私にとっては社名や歴史などどうでも良く、これから伸びてゆく希望の持てる会社というイメージだけがありました。ここでは 「本社部門」 から 「営業部門」 まで、この業界の関係業務全般を幅広く経験できました。およそ新人が携わることの無いであろう部分にもタッチでき、その後の自分に大いに役立っています。

また、要領にも走れない不器用なこの頃が、最も多くの取引先との人間関係の財産を築くことが出来ました。効率は悪いものの、繰り返し取り組み続けられる時間だけは許されていたからです。そのいくつかは今でも一生の財産だと思っています。逆に、要領と効率を覚えてしまった今では、あの頃のような濃密な人間関係を作ることは容易ではありませんが。

A社入社7年後に最初の転職をしました。・・・まだまだ青かったんですね。転勤先の部署のやりかたや上司の考え方が、以前いた部署と大きく隔たりがあり、それがどうにも納得できなかったんです。今なら 「組織が違えば別会社」 はある程度普通の事なんでしょうが。

しばらく間を置いて入社したB社は 「社名はおろか製品もマイナー、でも名物社長の人脈で有力口座がきわめて多い」 というオーナー企業です。オフィスが超高層ビルにあることと転勤が無いことが特長です。新聞の募集広告で見つけました。社名は知らなくてもオフィスがあるビルは誰もが知ってるので何かと便利でしたし、小さな子供もいた私には、転勤の心配が無いこともありがたかったのです。担当取引先の軒数は減っても、前社と重なる先も多く、違和感はありませんでした。

順調に2年が経過した頃、ふと気付いたことがありました。元来地道にやってる会社なんですが、オフィスが立派な割に売上が伴わないのです。当時、東京と大阪に同じようなオフィスを構えていましたが、どう考えても維持費が高過ぎます。主力製品と呼べるのはわずか1品目だった上に、期待された新製品がポシャッたのもこの頃で した。

「早晩撤退するかもしれない。そうなると勤務環境は確実に悪化する」 と思ったのは私だけではなかったでしょう。

C社は、同業の大学の先輩の紹介で入社しました。「ある特定分野での社名は有名で、かつ独占的製品を持つ」 外資系企業です。C社の話自体は、B社勤務時からすでに聞いていましたが、その当時はさほど関心が無く、どうせ怪しげな外資系企業なんだろう位の意識しかありませんでした。私の認識不足に加え、この時点ではC社への転職に対する自分自身のニーズが無かったのかもしれません。

しかし実際に入社し活動してみると、無くてはならない製品を持っているということは、こんなにも強い事なんだ、そしてやりがいにも直結するものなんだと初めて実感できました。精神的な優位さと余裕を常に持ちつつ活動できるということは何物にも替えがたい武器でした。さらに、ユニークな新製品も続々開発途上にあり、将来的にも楽しみが持てた企業でした。

私は社名やステータス、収入を必ずしも転職の基準にはして来ませんでした。求めるものは人それぞれですが、自分のニーズの全てにマッチする会社など絶対に有り得ないからです。ただ、現状よりどの部分でプラスアルファが得られるかという事は重要視したつもりです。失うものより得られるものを、すなわち減点法より加点法での判断を好んでして来ました。

振り返ってみると、何らかの岐路に差し掛かると、必ず目の前に選択肢(チャンス)が現れたような気がします。そしてそれは決して偶然ではなく、日頃から意識的にアンテナを張っていた結果だということにも気付きました。また、転職に伴なう環境変化をあまり恐れず、即断できる若さがあったのも事実です。転職先が同じ業界だったということで、過去の財産や経験を生かせましたし、通算キャリア年数として認められもしました。

トータルでみれば私の場合、場面場面で転職という手段を執った事は概ね成功だったと言えるのかもしれません。逆に、当時同じ状況でありながら、変化を嫌ったがために現状に埋没していった同僚や後輩達も少なからず見てきました。残念ですが、チャンスをチャンスとして捉えられる感性と一歩を踏み出す勇気、そしてタイミングが重要なんですね。

以上、私の転職歴はここまでです。幸か不幸か今現在は新たな選択肢は現れていません。

余談ですが、その後A社はその事業部門のほとんどを他社に売却、B社はオフィスを撤退し社員は半減、C社は合併を繰り返し世界有数の企業規模となり現在に至っています。


(2001年12月 記)

・・・・・・・

これまでの履歴とプロフィール紹介を兼ねて書いたエントリだった。

ただでさえ人の動きが活発なこの業界、私みたいな転職歴を持つ者は少なくないが、C社のような2度に渡る大型合併を当事者として経験した者はそう多くはないだろう。それらを経て現在に辿り着いているのは、必ずしも本意ではないにせよ、結果的にハズレでもなかったとは思っている。

サラリーマンの年功序列や終身雇用が崩れ、能力主義だのリストラだのという言葉に取って代わられて久しい。私はもはや会社が社員を守る時代は終わり、社員は自らを守らなくてはならない時代になったと思っている。すなわち、ある集団に属しているというだけで完結できるという保証はどこにもなくなった。進むも留まるも、上がるも下がるも個々の才覚に委ねられたのである。

このエントリにも書いたように、そうした時代には、チャンスを捉えるアンテナとそれをチャンスと感じられる感性を持ち続ける事が重要で、そうと思ったら冷静に大胆に一歩を踏み出す勇気が今を変えられると思っている。

サラリーマン人生は長いようでも短い。新たなチャレンジに踏み出そうにも、その人の置かれている環境は決して無視できない。仕事上の新たなチャレンジは概ね40歳までには決めるべきである。50代になると難しい面が多く出て来るので、50代からはむしろそれまでに培って来たものの利子で食って行くくらいの気持ちでいるべきだ。

もっともこれは定年退職という終点のあるサラリーマンの場合で、自営業の場合は年齢制限などは意味がないのかもしれない。自らがリスクと全責任を負っている自営業に終点など存在しないからだ。私は薬局経営者の家に育ったせいもあり、今でも実は自営業に一種憧れを持っている。





温故知新シリーズ 03

<吟醸酒との出会い、それはあまりにカルチャーショック>

「吟醸酒」 とか 「大吟醸」 といった言葉を聞いたことがありますか? 

最近では特にめずらしい言葉ではないので、多少なりとものんベの方はご存知でしょう。これは日本酒(清酒)の製造法による呼び名です。簡単に言うと、酒米を半分くらいまで精米し、米の芯を原料に手間隙かけて作った清酒のことです。かつては酒造会社が品評会用に作り、一般にはほとんど出回らなかったようです。

私が吟醸酒と初めて出会ったのは25年位前です。そのころは 「地酒ブーム」 の始まりで、代表的な稀少銘柄の 「越の寒梅」 や 「八海山」 などが通の間で垂涎の的でした。もちろん 「吟醸酒」 というものもほとんど認知されておらず、当然私も知りませんでした。

千葉県柏市の小さな居酒屋に従兄弟と入った時のことでした。その居酒屋のカベにあの 「越の寒梅」 が書いてありました。ちょっと高いかもしれないけど、めったに無いので一杯だけ飲もうということになり、たったひとりの店主のおやじさんに注文した時のことです。

「おたくたち、この店初めて?」 
「はい」 
「そうかい。じゃ、本当の日本酒を教えてあげよう」 

と言って出されたのは注文したものとは別の銘柄でした。なんか変な展開になったなぁと思いつつ、私たちはそれを口にしました。ゴクンと一口、そのとたん口一杯に拡がったのはいつものお酒の味ではなく、なんとフルーツの香りだったのです! リンゴのような・・・はたまたメロンのような・・・! そんなバカな? 何か仕掛けがあるんじゃないのか? ・・・でも、何度口にしてもフルーティーで鮮烈な香りが拡がるのです。

あっけにとられてる私たちに向って、店主のおやじさんは 「どうだい、これが本来の日本酒の味だよ」 と言い、大吟醸や吟醸酒、純米酒、本醸造、一般の清酒の製造法から日本酒を取り巻く現状まで教えてくれたのです。まさに目からウロコとはこのことです。日本人としてのカルチャーショック以外の何ものでもありませんでした。同時に 「じゃあ、オレたちが今日まで飲んでたのは何だったの?」 との思いに駆られたのを覚えています。

後で聞くと、飲んだ銘柄は 秋田県「新政」 の大吟醸とのこと。あのフルーツの香りは「吟醸香」と言うそうです。そして店主のおやじさんが最後に言った 「果実でもない米が原料なのにフルーツの香りと味が出るのは日本酒だけ。酵母のなせるワザだろうが、本来の日本酒はりっぱに世界に誇れる文化だと思うよ」 という言葉が私の胸を打ちました。

それから何年か経って、友人の中にはワイン通やカクテル通を自認する者もいました。それらのお酒の世界も深く、興味を惹かれましたが、いかんせん味わうための料理代や酒代がバカになりません。なぜなら特にワインは、キチンとした料理と共に味わってこその世界だからです。さすがに今はそうではありませんが、あの頃飲んだ赤ワインは、アミノ酸類の味付け文化に育った日本人の私には、独特のタンニン系の味が皆同じに思え、ただ渋さのみだったのです。いわんや、微妙な味わいの違いなぞアウトオブ眼中でした。その時私は思いました。

「日本酒だったら、どこでも簡素なツマミだけでもお酒そのものは十分楽しめる。よし、オレは日本酒の世界を極めてやろう!」

それから今日に至るまで、ことあるごとに吟醸酒を好んで飲み、関係書籍を見つけては読みあさり、あの日の店主のおやじさんのようなこだわりを持った店にもいくつも出会えました。日本酒は絶対飲めないと言っていた女性がヤミツキになったことも一度や二度ではありません。さまざまな銘柄を飲むうち、日数が経つうちに吟醸香に違いが出ること、思わぬ地方で優れた日本酒が作られていること、同じ銘柄でも製造年によって味が違うこと等いろんな発見もありました。

その吟醸酒との出会いを一番多く作ってくれた、言い換えれば最も多くカルチャーショックの機会を与えてくれた小さな居酒屋が埼玉県大宮にあります。繁華街のはずれの方にありますが、日本酒の選球眼も一流なら、置いてある日本酒のレベルも一流、ツマミにもこだわりがあってウマい。でも価格はリーズナブルという吟醸酒修行(?)にはうってつけの店でした。転勤で別れる日、私は僭越ながら色紙に一句したためました。

  しずくの伝承十四代 天界の九平次今宵の酒は 明鏡止水に鷹勇

わかる人にはおわかりでしょうが、このお店で出会えた心に残る銘柄の一部を連ねた句です。でも、到底全国の銘柄は飲み尽くせません。当然です、日本酒の銘柄は4000種類以上あるんですから。だからこそ私は未知の銘柄との出会いを、その時の感動を日々楽しみにしてますし、終着駅はたぶん来ないでしょう。


(2001年11月 記)

・・・・・・・

ここから私の真骨頂、大好きな日本酒の話題である。

思い起こせば大学生時代に初めて味わったフルーティな味わいの大吟醸酒。原料がブドウのワインじゃあるまいし、味も素っ気もない米が原料の日本酒でどうしてこんな味が醸せるのかが不思議でならなかった。以来、吟醸酒の虜になった。

この頃一番の思い出は、大吟醸の味を知った私が、そんな事はありえないと言い張る親父をクドいて大吟醸の一升瓶(¥5000)を強引に買わせて飲ませ、自分と同じカルチャーショックを与えた事である。その味に驚いた親父が一升瓶を抱えて親戚の家へ持って行った程だった。

あれからざっと30年。

昔は居酒屋の日本酒メニューを見ながら「こんなラインアップじゃ話にならない。この店のレベルはこの程度だな」などとホザき、その中からシブシブ選んでいた。けれども、日本酒に対するあの頃のこだわりが歳と共に薄れて来ているのを感じている。

地酒の看板は見かけるものの、本当に吟味された吟醸酒を置いている店そのものが激減した。焼酎やチューハイ系の方がリーズナブルだし、酔えればいいという酒にわざわざこだわりを持って高いお金を払う客もほとんど見なくなった。それは私自身も例外ではない。

時の流れのせいにもしたくはないが、いつしか時代も自分も変わってしまったのかもしれない。




温故知新シリーズ 02

<ホームページ立ち上げのワケ ② ~作成ソフトがそこにいた~ >

契約から1ヶ月ちょっとで納車となりました。購入車種ですが、この時の同居家族が2人だったこと、ドアの剛性感などから3ドアがベターということで、グレードはXS(3ドア、AT)にしました。この頃206は人気車だったせいか、納車半年以上待ちもめずらしくない状態でしたので、納車までは結構早かったと思います。そのカゲで、自己チュウな私にたかだか入社第1号の客だという理由で精一杯ガンバッてくれた新人の担当君の努力も忘れてません!

さっそく乗り回してみたところ、すぐにBBSでのオーナーの方たちの言葉がウソじゃなかったことを実感しました。小型車ならではの小気味よさ、それでいて地に足が着いたサス、高速でさらに安定する走りなど同クラスの国産車じゃ絶対味わえないだろう楽しさを十分堪能できました。また、価格の割にどこに出かけても絵になる車でもあります。最初は恐る恐るだった206ファンHPのBBSへの書き込みもだんだんと慣れてきました。初めてオフ会に参加したのもこの頃です。

話題のアーシングもそのオフ会でやってもらえました。材料はその道の 「巨匠」 と呼ばれる方のお手製で、費用も市販品の10分の1以下で済みました。ああ、ありがたや! アーシングとは、簡単に言うと車の電気の流れをスムースにしてあげるために何本かのコードをエンジンルーム内に配線することです。こうすることで電気抵抗が低減し、エンジンのフケあがりやライトの明るさが驚くほど良くなるのです。これはお手軽でおススメのチューンアップですよ!

「皆が最初にやりたがる吸排気系のチューンは、アーシングを先にやってからでないとホントの効果は出ません」 とは巨匠のお言葉。

さて、心配したトラブルも幸い現在までありませんが、私自身は今後もし何かあっても許せちゃうくらいに206を気に入ってしまいました。今気になってるのは、仕事で使うことが無くなってしまったので、走行距離の成績が他のオーナーより極めて悪く、そのうち皆に置いて行かれちゃうのでは・・・ということです。そうこうするうちにBBSへの書き込み回数がさらに増えた頃、ある書き込みがきっかけで、こともあろうにホームページ作成を勧められたのです!

私にとってはまさに青天のヘキレキ! 無謀きわまるオーダーです。今までROMしてきたサイトはどれも素晴らしいデザインだし、それがどうやって作られているのか想像すらできず、そんな私が自分のホームページを持つなんて全くあり得ないことでした。以後この件には触れず、塩漬けにすること3ヶ月・・・ある日のPCショップでふと目に入った 「ホームページ作成ソフト」 を手に取った時、思わず思っちゃったんですよね。

「これを使ったら、オレでも出来るかもしれない!」

で、あれやこれやソフトとの格闘を経て今日に至ってます。当然、あこがれのサイト達のようなデザインは望むべくもありません。肝心のテーマですが、もともと車にはあまり詳しくないので206に特化したサイトは難しいし、無理がある。それならば、せめて思いつくさまざまなテーマについて私なりの意見やら感想やらを載せてみて、あわよくば覗いてくれた人の意見も頂けたらいいな、というのがこのテーマを選んだ動機なんです。ネタにはかなり苦労しそうですが・・・。


そういうわけでここに拙いHPが誕生しました。皆さんの応援よろしくお願いします!


(2001年11月 記)

・・・・・・・

初めて「オフ会」なるものに参加した時の緊張感は今でもハッキリ覚えている。BBSでもないのに生身の人間同士がハンドルネームで呼び合う一種異様な違和感と共に・・・。

アーシングの巨匠、POOBメンバーでもあるしげドン氏は同世代のOYAJI。アーシングの何たるかも分からないまま、途中で雨が降り出した「アーシングオフin名古屋」にて3本のコードをセットしてもらったのは2001年8月下旬の事だった。

その後も北陸のプジョーオーナー達の「Culb de 猫足」オフにも参加し、オフ会にも徐々に慣れていった。同時に、利害関係を持たないグループの心地良さもよく分かった。逆に言えば、それまでいかにシガラミというものに縛られて来たかという事に他ならない。

ホームページ作成ソフトについては、当時定番とされていたのは「ホームページ・ビルダー」だったらしいが、設定が複雑で難しそうに見えたので敬遠した。代わって、これならと思ったのは全自動と謳った「ホームページNinja 2002」だった。初心者にはこれでもワケの分からん部分が結構あったけど。

問題はホームページのテーマだった。自分は何に興味があり、何だったら続けて行けるかと真剣に悩み、考えた結果が意見交換の場という事だったのだが、実は未だに達成できていない。挙句、ブログへと移行して現在に至ってしまったのである。





温故知新シリーズ 01

<ホームページ立ち上げのワケ ① ~まずは車選びから始まった~ >    

 2001年5月に新車購入契約をしました。それまで乗っていたギャランVR-4から一転、コンパクトでコジャレた感じの車にしたかったからです。VR-4は車重1.5t超の重量級セダンでしたが、ツインターボと4WDのおかげで、加速と高速ではほとんど敵なしでした。

が、なんてったって大食い! 

自慢じゃないですが、市街地走行の燃費はなんと5km以下! まるでガソリンを撒き散らしながらの走りももったいないし、高い税金を払いながらハイパワー車を乗り回す時代でもないとの思いから車選びにさまよい歩き始めました。

国産はもとより、イタリアなどラテン系や西ドイツなどゲルマン系もいろいろ見て回りました。高いの安いの、デカイの小さいの、などなど紆余曲折の後にたどり着いたのがフランス 「プジョー」 で、車種は 「206」 でした。デザインは言うまでもなくオシャレな超個性派、価格もVR-4の3分の2以下、試乗した感じも悪くない・・・。一気に決定か? と思った時、ひとつの不安が頭をよぎったのです。

・・・そう、プジョーは 「輸入車」 なんですよね。(何をいまさら!)

輸入車と言うと、真っ先に思い浮かぶのは 「トラブル」 です。しかもプジョーもしっかり例外ではない過去があったようです。自動車屋をやってる友人も同じことを言って、やはり勧めません。若干の恐れを抱いてしまった私は、さっそく愛用者のHPを探し、購入記などをROMしながら不安に思うことなどを聞いてみることにしました。

作者の方からも、そのBBSに来る他のオーナーの方々からも 「昔よりかなり良くなったが、機械である以上トラブル皆無ということはない。 でも、プジョーにはそれを超えた楽しさがある」 という声が圧倒的でした。

私はその言葉に勇気付けられました。それが最後のキメ手となり、心配しても仕方がないことは必要以上に悩んでも意味がないなと購入に踏み切りました。4年乗ったVR-4のメチャメチャ低い下取り査定にも涙でこらえ・・・思えば三菱車、最悪の時でしたよねぇ。

でも、人間思い切ってしまうと世界が拡がるモンです。気持ちは早や新しいプジョーとの生活へと切り替わり、その期待は膨らむ一方。車もまだ来ないのにアクセサリーは買っちゃうわ、カタログを端から端まで穴のあくほど眺めては、あげくに抱いて眠っちゃうわ・・・やがて来る未知の味わいとの出会いにワクワクの毎日でした。

(②へ続く)


(2001年11月 記)

・・・・・・・

さっそく自己満足の特別企画「温故知新シリーズ」を始めよう。

何を隠そう、これが私のWebデビューの文章である。いやはや何とも拙い事この上ない。

来る12月25日開設予定のホームページのコンテンツのために、開設へ至るまでの顛末を書き溜めておこうと思っていた。

これを書いた時期は、名古屋(瑞穂区)へ転勤して1年余り経ち、西枇杷島が沈んだあの東海豪雨も経験し、自宅前の瑞穂通りを駆けて行く名古屋国際マラソンも観戦し、そろそろここでの生活にも余裕が出始めて来た頃だった。

契約した5月は三菱がリコール隠しをやらかして信用失墜の真っ只中、このままでは自分の車もいつ壊れるか分からんぞ、という事で乗換えを決意したのである。辿り着いたのは、名古屋へ来る前にいた埼玉でも見たプジョーだった。

それまでのスピードとパワー指向はもう止めて、これからはオシャレなコンパクトカーでゆっくり流せればいいと考えた。そのイメージにピッタリだったのがフランス車だったのだが、どっこいプジョーはラリーにも出場しているバリバリのメーカーだったとその後で知った。

それでも輸入車に不安を抱いた私が相談した先が「Fine Blue」というプジョーオーナーが集まっていたサイトで、管理人の亮氏とはその後もPOOBを通じて付き合いが続いている。





特別企画を始めよう

定額給付金に引き続き、高速料金1000円均一なんて、リッパな経済政策とはとても言えそうにない愚策をやらかした麻生内閣のおかげで、今年のGWはいつもより渋滞や混雑が著しい。盆暮れ正月でもないのに40km、50kmの渋滞予想も出されている。ヘソ曲がりの私は、こんな時は「動かざること山の如し」を決め込む事にしている。

というワケで、特に遠出の予定もなく、やる事もさほどないので特別企画と銘打ってひつまぶし、じゃなかったひまつぶしを始める事にした。 ・・・テンションはユルユルである。

・・・・・・・

このブログを始める前に簡易作成ソフトで作ったWebsite(当時はホームページと言ってた)があった。名古屋勤務時代の2001年12月25日に開設した「OPINION and JUDGEMENT」という、このブログと同じタイトルのサイトだ。もちろん今でも存在しているが、実はPCもしくはソフトの不具合からかアップロードが全く出来なくなってしまったのである。

やがて使っていたレンタル日記業者とのトラブルなどもあって、このブログに全面移行したのが2007年6月の事だった。それ以来Websiteは放置プレイ状態となった。

Websiteには掲示板(BBS)や相互リンクページなども設置してはいるものの、今やスパム書き込みや何の脈絡もない業者のリンク申し込み程度しか機能していない。もはや消え行くサイトと言ってもいいだろう。

そんなサイトの中にも、私の財産とは言わないまでも大切な記録が残っている。「My OPINION and JUDGEMENT」と題したエッセイモドキである。右も左も分からなかったWebデビュー、恐る恐る書いた「ですます体」の文章から始まって、最後には「言い切り体」で書けるまでに慣れて行ったのも懐かしい。

Website開設の目的が、さまざまなテーマに対する訪問者との意見や感想を交換する場だったため、BBS上のやり取りがメインだった。よって初めは日記というものを書いていなかったので、このエッセイモドキが私の方からの事実上の意見発信、提案だった。だから当時として精一杯の気合を込めて書き上げたという記憶がある。

・・・・・・・

そんな未熟でたどたどしい足跡の記録保存の意味も含め、「温故知新シリーズ」としてここに移してはコメントをつけ、不定期にアップして行こうと思ったのである。もっとも、こんな企画は本人の自己満足以外にほとんど意味を持たないけど、これがひまつぶしである。





キレがなくなった?

本日の仙台研修は、予めYさんの分担としていた午前の部が無事終了し、替わって私の分担である午後の部へ突入した。

最初のセッションが終わって、2つ目のセッションの冒頭、「この製品は発売時からYさんが担当してきました。今回は私の分担となっていますが、最終講義としてYさんにアンコールをお願いしようと思いますが、どうでしょう?」と投げかけてみたところ、満場の拍手による賛同を得たので急遽選手交代した。

・・・・・・・

話は変わって、最近つくづく思うのは自分の文章力の拙さである。このブログしかり、書き上げてアップした後も必ずと言っていいほど修正する。誤字脱字を発見した場合はもちろんだが、読み返すたびにアラが見えたり、新たなフレーズが浮かんだり、いくつかの部分を書き加えたりと忙しい。

だったらアップ前に納得行くまで推敲しておけという事になるが、これがそうもいかないのだ。大抵の場合、アップした翌日以降になって気が付いたり思い浮かんだりするから厄介なのである。カッコ良く言うと、1日寝かせて熟成させないとダメなのだ。

愛読している他のブログの中にも、私と同じような事を書いているブロガーがたまにいるものの、ほとんどは「一発アップ、修正なし」の見事さだ。よほどきちんと推敲しているのか、はたまたよほどの文才の持ち主なのか。逆に、細かい誤字脱字などは一切スルーしているブログもあるし。

それでも以前は、一発勝負でもそこそこ許せる満足度を保っていた。その満足度が急激に落ちてきたのをはっきり自覚したのはここ数年だと思う。要は書き上げた時点での完成度が落ちたという事に他ならないのだ。思えば子供の頃、ただ漠然と憧れていたのが小説家だった。でも、今ではそれを目指さなくて正解だったなと思う。こんな文章では、厳しいプロの世界ではとても使えたモンじゃなかろう。

その原因を落ち着いて考えてみる。生まれ持った才能と年齢による衰えの問題はこっちに置いとくとして、ふと思い至った事がある。

それは文章を書くための手段である。言うまでもなく、現代はメールやブログはもちろんの事、レポートなど仕事上のほとんどの文章もPCで書いている。それは手書きの時代に比べ、我々に産業革命的な変化をもたらした。

漢字や用例を知らなくてもフロントエンドプロセッサーが多候補変換してくれるし、キー操作だけで意のままに編集や修正ができる。たぶん、この事が大きな原因だと私は睨んだ。一言で言えば、手書き時代にあった真剣味が薄れたのだ。とりあえずは思いつくまま書いておき、後でどうにでも書き直せる便利さが気軽さを生み、それが最初の文章の完成度に悪影響を与えているという事である。

かつては本を読んで身につけた表現力も、用件を並べれば事足りるメールには必要とされない。思い悩んで何度も書き直した手紙も、今や死語になりつつあると言ってもいい。郵便受けにはダイレクトメールと新聞ばかりが入っている時代になったのである。

これに限らずとも、何事につけキレのなくなりつつある年代だというのは認める。認めつつ、我が文章は今後も修正を行なっていく。もとよりこのブログは「厚顔無恥の屁理屈日記」だ。少なくともアップ翌日までは大なり小なり変わっている事があるので、そこんとこヨロシクである。

・・・・・・・

せっかくのYさんの講義だ。講義内容を私もしっかりパクッて、残す最終研修会場である新宿で使わせてもらおう。本当のYさんの最終講義は明日の盛岡会場だ。研修終了後に別れ、Yさんは北の盛岡へ、私は南の東京へ。お疲れさまでした。



どうした? 今枝弁護士

かつて光市母子殺害事件の被告弁護団の一人だった今枝仁氏。彼の名前に覚えがなくても、差し戻し控訴審被告弁護団の記者会見で号泣した太目の弁護士と言えば、思い当たる方も多いだろう。その彼のブログが最近ちょっと変なのだ。と言って、誹謗中傷する意図は全くない事をお断りしておく。

被告弁護団に加わった彼は、誰よりも多く被告人と接見し、被告人の声を直に聴いてきた。また、安田、足立弁護士らのような死刑廃止論者ではなく、むしろ被告弁護団の法廷戦術のあり方や本村氏をはじめとする被害者遺族への慮りをブログを通じて率直に公開して来た。さらにこの手のブログには珍しく、コメントが自由に書き込めたので、エントリに対する賛否両論の書き込みが溢れていた。

それら一連の情報開示のせいだったかどうか、公判途中で彼は解任されたが、その後も様々な角度から自論を書き綴っていた。ただし、コメントの受付は停止したが。判決後にはワイドショーなどに出演し、主に被告とのやり取りについて話していた。私は、彼のブログのエントリに加え、生の話を聴いても特に偏向した考えの持ち主という印象は持たなかった。

それがどうした事か、ブログのサブタイトルもエントリも180度変わってしまったのだ。

サブタイトルには、今までの彼とは思えない「生物・動物・人間・弁護士・占師・物書きの顔を持つ自称自由人。。自由奔放な通称今枝仁こと、`イマジン`のブログでふ 読んでちょ(^_-) 」の文字。

「僕の真意」というエントリでは、
『世の中には、「今枝弁護士はなにを考えているのだろう。」という疑問を持つ人が増えているようです。
答えを示して、誤解を解いたり、理解を得たりするのは簡単です。
その前に、もし真剣に考えたい人は、もう1度、僕のブログを、そのときの状況を思い浮かべながら、読み直してください。
冷静に、慎重に。
結論というものは、すぐに出すべきものでもありません。』

「憲法記念日」というエントリでは、
『憲法の前文を百回、各条文を3回くらい読んだら、泣けます。
泣けない人は、中学校の地理・歴史・公民の教科書を百回読んでみましょう。
それでも泣けない人は、小学校の国語と社会の教科書を1年生から全部読んでみましょう。
それでも泣けないなら、
①ベートーベン
②ビートルズ
③千の風になって
④尾崎豊
をレベルにあわせて10回聴いてみましょう。
それで泣けなかったら、よっぽどのレベルが高い人か・・・・ 』

「資格」というエントリでは、
『これからは、学歴よりも、資格の時代です。
国家資格であれ、民間資格であれ、自分に合った資格をとり、人生を充実させるのが幸福だと思います。
僕は、大検、自動車免許、英検準1級、裁判所Ⅱ種、司法試験、法曹資格(税理士、司法書士等を含む)と、ボラのように出世してきました。
今目指しているのは、簿記と、中小企業診断士です。
資格を取ると、死角がとれ、視覚がとれて、三角になります。
三角と言っても、△、▲、▽、▼、⊿、参画など、人によって様々です。』

「サイン」というエントリでは、
『最近、僕の著書に、サインしてくれという人が多くて、困っています。
彼や、彼女らは、僕がそれで喜んでいると本気で思っているようです。それが、悲しい現実です。
そんなことをしている僕を見て、一番悲しむのは、いったい誰なのか。
想像力を鍛えましょう。
答えは、自分で見つけてください。』

はたして何人の読者がこれを理解できるだろうか? 光市事件だけなく、法律や裁判に関するマジメなエントリで綴られてきたブログだったのに、この突然の変わりよう・・・。今枝氏にいったい何があったのか?

私はFC2ブログ提供の「My Bookmarks」に、現在30数個のブログを登録している。登録の基準は、単に情報の収集だけでなく、モノの見方や考え方を勉強できるブログかどうかである。今枝氏のブログもそのうちの一つだったのだが、これでは早晩削除対象になるだろう。




日記才人終焉

梅雨前線に沿って日本列島を舐めるように進んで行った台風4号「マンニィ」だが、15:00現在の東京では、朝からの雨も止み、薄く晴れ間も見えるほど天気が回復してきた。このまま太平洋の彼方に去っていけば、明日は予想より一日早い台風一過の晴天がお目見えしそうである。

この台風をキッカケに、例年よりズレまくっていた梅雨も明け、本格的な夏の到来となるのだろうか? ま、明日晴れたら、夏用テンプレートに替えよう。

本日で「日記才人(さいと)」がクローズした。予告通りにリンク先のWebsiteは消滅していた。ブログが登場するずっと前から、このサイトはWeb日記書きのリンク集的な場を提供してきた。その歴史は前身サイトの「日記猿人(えんじん)」に発し、以来10年以上続いていた。

自分のWeb日記を書いてはここで更新する。投票ボタンもあり、ランキング1位を目指して頑張ってる人もいた。オフ会も開かれたという。やがてWebの世界では、ブログや自動更新(pingやRSS)システム、さらにはトラックバックやSNSもでき、アナログ的要素を持ったこのサイトの使命の終焉を管理人が感じるに至り、クローズを決断したのだという。

私も自分のWebsiteでレンタル日記を借りて書いていた2004年頃からここに登録したので、歴史的にはまだまだ新参者の類だった。ランキングには興味なく、手動更新を淡々と続けていた程度だったが、それでもたまにお気に入り読者が増えると嬉しかった。

「日記才人の閉鎖」については、古参日記書きも含めた数々のブログで取り上げられていた。付き合いの歴史が長いほど、その思いにも深いものがあるのだろう、賛否を含めたさまざまな意見が記されていた。

クローズされる事を知って、私のお気に入り日記をこのブログのブックマークに移動したが、更新情報を察知できるRSS設定が分からず、ただのリンク集となってしまった。私レベルの者にとっては、日記才人はまだまだ有用なWebsiteだったのに・・・。

何はともあれ、ここに日本のネット社会の一つの歴史が幕を下ろしたのである。お疲れ様でした。


社蓄の鑑札

梅雨入りはしているとは言うものの、長雨の様相はまるでない。降ってもお湿り程度。それでもまだ今日はそれらしいかも。という事で、カラ梅雨も承知の上でテンプレ変更しました。

akatori777さんの「日想館」というブログにこんな記事があった。

要するに、
「一般論として首吊り式の社内IDを付けたまま電車とかの公共の場に出る奴は馬鹿である。単に外したりしまったりするのが面倒だというのもいるだろうが、便所から出たときにズボンのチャックを閉めない人間が少数派であるのと同様、あんなものをいい歳した大人が公共の場に出るときにそのままぶら下げていたら恥ずかしいとは思わないのだろうか」
というのである。

こういう事を歯に衣着せぬ口調でサラッと書くから、このブログが好きなのである。

ウチの社内も含め、昼食に外へ出るとかなりの数の男女がIDを首から下げて歩いている。昼休みはほんの一時の外出だからして、いちいち外さないのもわかる。それにしてもセキュリティ黎明期は物珍しくも映っただろうが、今や新鮮さのカケラも感じない。

細かい字までは見えないものの、毎日目にすれば、縦長か横長か、大まかなデザインや色使い等で会社名の察しはつく。記事にもあるように、これ見よがしの意識があるのかないのかは別にしても、ぶら下げたままの人をたまに電車内でも見かける。

私のIDカードは、伸び縮みする10cm位のストラップに付けてシャツの胸ポケットに入れている。玄関のガードマンに見せる時とオフィスのドアの出入りに使うだけなので、これで事足りるからである。こんなもの、とても首からぶら下げようとは思わない。

社名と名前と顔写真の印刷されたIDカードを首に下げている姿は、鑑札を首輪につけている犬猫に見えてしまう。首吊りストラップも会社仕様のものだけでなく、別のメーカーのものを色やデザイン、ロゴの好みで選んでいる人もいるので、ますますそう見える。「首輪をした社畜でござい」と。

さて、適当ブロガーである私は、トラックバックなどというワザは持ち合わせていなので、件の記事にはコメントを残すのが精一杯だった。akatori777さん、申し訳ない。


ふたたびmixiにて

久しぶりにゆったりとした休日を過ごしているので、mixiなぞをつらつらと眺めていた。出身小学校、中学校、高校などのコミュニティを巡り、ふと、もしかしたら、とウチの会社名でコミュ検索をしてみた。

すると、しっかりあったのである! 中に内定者が立ち上げたコミュが2006年、2007年、2008年と続いている。つい先日研修に行ってきた世代は2007年である。

メンバーは新入社員のほとんどが参加していて、しかも彼ら彼女らは学生時代からmixiメンバーだったのである。今の時代なら当然の事なのかもしれれないが、入社後も続けるのなら、せめて少しはプロフィールをいじっておかないと誰が誰だかバレバレだぞ。

そう言う私も足あとを残しまくっているだろうから、その気になれば分かってしまうと思うが・・・。

聞くところによれば、新人達は今週から研修総仕上げ&着任準備のために河口湖を引き払い、本社に通うらしい。そこで説明会スキルの再試験なども行われるらしく、それら全てに合格した後に着任が許されるという。

私が残した足あとからここへ辿り着いた新人諸君へ。

当分の間、自他のさまざまなものとの戦いが続くだろう。時には大敗を喫するかもしれない。だけどそれらは必ずや君達を成長させてくれる。艱難辛苦をくぐればくぐるほど人は大きくなれるのだから。

さあ、漕ぎ出そう! 本当の人生の海へ。大いなる希望と畏れを抱きつつ・・・。


Number of Access
Since 25. Dec. 2001
Day by Day ・・・
My Profile

Chaie<チャイ>

Author:Chaie<チャイ>
最初のWebsite開設は2001年のクリスマスのことでした。その後、紆余曲折を経てこのBlogへ引越して今に至ります。これからも日々の記録とさまざまなテーマについての意見や感想などを屁理屈コラム日記風に綴りたいと思ってます。

生まれも育ちも東京の下町です。東京タワーやチキンラーメンと同い年なので結構生きてますが、せめて精神年齢くらいは若いつもりでいたいなと。

自称「日本酒のソムリエ」のつもりでしたが、検査値との闘いの末に禁酒に踏み切り、それ以来かなり普通の生活を送ってます。

下手なアコギとウクレレを弾いて昭和を歌ったり、カラオケでも昭和を歌ったりしてます。最近は40年来の憧れだったMartin D-28Mと80年代製のKamaka HF2に囲まれて幸せです。

もうひとつの大好きは欧州車! プジョー乗りのサークル「POOB(プジョー太平洋OYAJIベルト)」の関東地区元締めなるものをやってます。

実は、足掛け10年乗って来た愛車「プジョー206XS」のミッショントラブルにより箱換えを余儀なくされ、ここでも紆余曲折を経てゲルマン製装甲車のような「BMW120iCoupe」を新たな愛車としました。

それをキッカケにBMWオーナーズクラブの「Club BMW 1(CB1)」「BMWメタボ白髪連合会」などのメンバーにもなりました。

某企業のプロフェッショナルな研修職人を目指して定期的に全国を飛び回ってましたが、ステージを替えて今後は頼れる薬局のOYAJIを目指したいと思います。

愛と情熱を持ってはっきりモノが言える「熱きガンコジジイ」になりたい!

Recent Comments
データ取得中...
Search
Translation
PDF Exchanger

Weather Forecast

-天気予報コム- -FC2-